円山歩(寺島しのぶ)は,離婚して息子の勇太(前田旺志郎)とともに実家で暮らしている。

 

 実家には父郷直(沢田研二)と淑子(宮本信子)がいるが,父郷直は博打好きのアル中でヤミ金から借金をしている。

 歩の職場にまで取立の電話があり,自宅に押しかけてきた取立屋に彼女は自分の手持ちの金を払って帰ってもらう。

 彼女は派遣社員として働いており,かつての勤務先を辞めたときの退職金は父の借金の返済に消えていた。

 

 母淑子は自分の生命保険を解約して,歩の預金と合わせて今回の借金も返そうとするが,歩は派遣の更新ができず,もはや余裕はなかった。

 淑子と歩は,ギャンブル依存症の家族の会に行き,主催者(原田泰造)の話を聞き,郷直には厳しく接するしかないと決意する。

 

 妻と娘にキャッシュカードを取り上げられた郷直は,テアトル銀幕の館主であるテラシンこと寺林新太郎(小林稔侍)に金を借りに行くが,淑子から厳しく言われていると言って貸してはもらえない。

 

 ゴウ(菅田将暉)こと郷直とテラシン(野田洋次郎)は50年前,同じ映画の撮影所で働いていた。

 

 

 ゴウは助監督であり,主に出水宏監督(リリー・フランキー)の元で,大女優桂園子(北川景子)主演映画などにたずさわっていた。

 テラシンは映写技師であり,撮影されたフィルムの現像や試写の仕事をしていた。

 

 ある日,ゴウはテラシンになじみの店のカツ丼を差入れ,出前の少女淑子(永野芽郁)を紹介する。

 彼女はその料理屋の一人娘だった。

 

 

 ゴウは出水監督に連れて行ってもらって,その料理屋で撮影スタッフたちと映画について語り合ったりしていた。

 園子は大女優だが,その輪の中で気さくに話に加わっていた。

 

 

 

 やがてゴウとテラシン,淑子と園子という4人で話をしたり,ドライブに行ったりするようにもなった。

 

 

 テラシンが明らかに淑子に好意を持っていることに気づいたゴウは,彼に淑子へのラブレターを書いてはどうかと提案する。

 テラシンは,ためらいながら書いた手紙を淑子に渡すが,淑子はゴウの鈍感さにに怒る。

 淑子はゴウが好きであり,テラシンへの断りの手紙をゴウに託す。

 

 

 ゴウはそれをテラシンへ渡して謝る。

 ゴウ自身も淑子のことが好きだったが,テラシンと付き合った方が幸せになると信じていたと言う。

 

 結局,ゴウと淑子は付き合うようになり,その後,ゴウは念願が叶って初の監督作品の撮影が始まる。

 タイトルは「キネマの神様」であり,生活に疲れ映画だけが楽しみであった主婦にある日,スクリーンの中から主演男優が語りかけるという話だった。

 その構想は以前からあり,テラシンも淑子もその発想を賞賛し,映画として観てみたいと言っていたものだった。

 また,園子も自ら主演を買って出ていた。

 

 だが,ゴウは緊張のあまり体調を崩した上,ベテランカメラマン森田(松尾貴史)とアングルについて口論になったとき,セットの上から落ちて腕を骨折してしまう。

 

 

 そして,周囲が止めるのも聞かず,撮影所に辞表を出して岡山の田舎に帰ってしまう。

 淑子は母親の反対を押し切って,ゴウに付いて行く。

 

 だが,淑子はその後,ゴウには苦労ばかりかけられ続けてきた。

 

 その後,一家は東京に住むようになったが9年前に淑子は近所の映画館にパートの応募に出かけた。

 そこで,かつての夢を実現して映画館の館主になっていたテラシンと再会したのだった。

 

 郷直はテラシンにも借金を断られ,自宅にこっそり戻り,孫の勇太に金を無心する。

 引きこもり気味の彼は自宅でウェブデザインの仕事をしており,それなりに収入はあるという話だったが,やはり借金は断られる。

 

 だが,勇太はテラシンに借りたという「キネマの神様」の台本を出してきて,これは傑作だと思うと言い,手直しをして脚本コンクールに出すことを提案する。

 賞金100万円につられて郷直も了承する。

 

 そして,「キネマの神様」の脚本は最優秀賞を取り,郷直は一躍時の人になる。

 だが,受賞に浮かれてはしゃぎすぎた郷直は,体調を崩して授賞式は病院で様子を聞く羽目になる。

 

 

 娘の歩に託した受賞挨拶は,妻と娘への謝罪と感謝の言葉に溢れていた。

 

 「キネマの神様」は映画化の話も進むが,新型コロナウィルスの感染が進み,映画界は大きな打撃を受ける。

 テラシンのテアトル銀幕も休館や入場制限が続き,彼も廃業を決意する。

 だが,歩は郷直からだと言って賞金100万円の内,使ってしまった残りの70万円を持ってくる。

 そして,クラウドファンディングなどでなんとか頑張ろうと励ます。

 

 テアトル銀幕では,園子が主演した小田監督の作品が上映されていた。

 その映画に助監督として参加していた郷直は,どうしても観たいと言い出して,家族に連れられてやってくる。

 

 列車の中のシーン,ゴウがカチンコを鳴らしたときのことがよみがえる。

 映画の中の園子は客席のゴウを見るとスクリーンから抜け出し,彼を迎えに来る。

 郷直から若かった頃のゴウが抜け出して園子とともにスクリーンの中に帰って行く。

 郷直の映画を観ながら死ねれば一番幸せだという希望をキネマの神様が叶えてくれた。

 

 

 

 おそらく最も新型コロナウィルスの影響を受けたであろう映画だが,ようやく公開された。

 

 出演者も好きな人が多く,期待して観に行ったのだが,正直,映画としての出来は疑問。

 

 郷直の身の持ち崩し方があまりにも安直なことにあきれるが,田舎に帰ってからここまでのいきさつが全く描かれていないのは雑すぎる。

 出水監督のセリフに全てを描かない方が良いというのがあったが,これはやり過ぎで,歩の出生の状況すら描かれていない。

 

 また,淑子とテラシンの再会シーンもとってつけたようだし,郷直とテラシンの再会シーンがないのも戸惑う。

 

 そもそもの話として,ゴウにつきまとう謎の劣等感の正体が分からない。

 なぜ,淑子をテラシンに譲ろうとしたのか,なぜあんなに簡単に映画の完成をあきらめたのか。

 そこが全く描かれていなくて,しっくりとこない。

 

 郷直は志村けんが亡くなって沢田研二が代役になったのだが,明らかに志村けんを意識して書かれたセリフやシーンでは,なんとなく不自然さがある。

 沢田研二が熱唱する東村山音頭はどんな気持ちで聴けば良いのか?

 確かに菅田将暉の老後は志村けんよりも沢田研二かもしれないが・・・。

 

 リリー・フランキーだけが異常に自然で上手い演技をしているなか,菅田将暉とかは演技を押さえられているような感じがして観ていて戸惑う。

 寅さんを観たことがないので何とも言えないけど,山田洋次作品というのはこういうものなのだろうか?