この物語は,2025年を舞台として,2010年に地球外生物から地球を救ったゼブラーマンこと市川新市,1日2回,5分間だけの無法地帯ゼブラタイムを導入した相原公蔵都知事,相原都知事の娘でゼブラクイーンこと相原ユイ,そしてゼブラーマンに滅ぼされたはずの地球外生物の生き残りが,謎を秘めた関係を持ちながら進んでいく。
 しかし実際のところ,物語が進み謎が明らかになっていっても,とくに感心するところはないし,結末については,どのレビューを見てもネタバレを避けると言うより,ばかばかしくて書く気になれないという感じで,説明されていない。私も書こうとは思わない。
 しかし,そのようなことにかかわらず,この映画は素晴らしく魅力的である。
 この映画の魅力は,誰しもが認める通り,仲里依紗を中心に据えた映像世界にある。
 仲里依紗は,都知事の娘相原ユイとして,そして,40週連続1位のスーパーアイドル,ゼブラクイーンとして,ゼブラシティに君臨する。
 ゼブラシティは不気味な造形の都庁ビルを中心として,ゼブラクイーンが君臨する街としてふさわしい雰囲気で描かれる。
 相原ユイはこの街を手始めとして,世界の支配をたくらみ,悪の限りをつくす。
 41週目にゼブラクイーンを抜いて1位となった歌手を自らモップで撲殺しながら,その死を悼むふりをして,曲を捧げる。野望の邪魔になった相原公蔵を狭い車の中で狂ったように蹴り続け,車外に放り出してゼブラポリス達に殺害させ,その死を自分が迫害しようとしている団体のせいにする。自らを守ろうとした手下の新実を「うざい」のひとことで刺してしまう。
 仲里依紗は,この様な役どころを見事に演じている。特に悪を演じる時のささやくような声とキレた演技との対比には,ぞくぞくするほどのすごみがある。
 また,ゼブラクイーンのライブシーンは,ほぼ丸々2曲分が収録されており,この映画は,ゼブラクイーンのライブを大画面,大音響で楽しむためにあると言っても,あながち誤りではない。
 そして,この映画のもうひとつの魅力は何と言っても黒ゼブラの雄姿である。
 相原ユイは地球外生物の力を借りて黒ゼブラに変身し,ゼブラーマンの白ゼブラと戦うが,ここでもまた主役は彼女である。
 彼女が戦うシーンは,この映画のキャッチコピー「女が最強」そのものであるが,黒ゼブラを演じる仲里依紗は,強いことよりも何よりも,ともかくかっこいい。
 不敵な表情,迫力のある声,アクションや決めポーズの美しさ。
 地球外生物が破壊したビルの上に立ち,燃えさかる街を睥睨しながら哄笑する姿は,善悪を超えた爽快さを感じさせる。
 映画やドラマには,魅力的な悪役がしばしば現れるが,ゼブラクイーンはその一人として映画の歴史に加わったと言える。
 また,この映画は,時をかける少女と間をおかずに公開されたため,仲里依紗の演技の幅の広さを示すものとして話題となったが,演技の幅と言うことで言えば,それを最も端的に表しているのは,ゼブラクイーンが悪のエキスを凝縮した黒い球から生まれてくるシーンであろう。
 黒い球が人間の形に変わっていき,相原公蔵が,顔を見せておくれと言う。その瞬間にエイリアンが飛び出すように出てきた顔は,仲里依紗のファンであっても恐怖を感じるほどにすごい。さすが,自分ならもっと怖く撮れる,と言いながら見るほどのホラー映画ファンである。
 最後にどうしてもふれなければならないのが,黒ゼブラの涙である。ネタバレと言えば,ストーリーそのものの結末よりも,むしろこちらであろう。
 相原ユイ,ゼブラクイーン,黒ゼブラは悪の化身である。
 しかし,悪の化身になりさえすれば,恐れるものも,悲しむものも,心動かされるものも何も無くなるのだろうか。
 決してそうではないことは,物語の前半で流れるNAMIDA~ココロアバイテ~の中で,ゼブラクイーンが見せるさまざまな表情が,すでに物語っている。
 ダンスの合間に彼女のさまざまな表情がフラッシュのように挿入される。怒り,恐れ,不安,悲しみ,たくらみ,自信,蔑み。仲里依紗は,ゼブラクイーンの持つさまざまな感情を一瞬一瞬に鮮烈に表現する。
 ダンスも歌も本業顔負けにこなしたという評判もあるが,この表情の素晴らしさは,どんなに上手いミュージシャンやダンサーであっても,決して出すことはできない。まさに女優仲里依紗の世界である。
 そして,物語の終盤で悪の化身のはずの彼女が涙を流し,自らの涙を見て「何だこれは」と言って動揺する。
 「消えない想い気づいて こぼれ落ちるこのナミダの意味を教えて」
 「時をかける少女」のテーマ曲だと言われても全く違和感のない歌詞であるが,仲里依紗が演じる黒ゼブラの涙は,この歌詞のとおり,決して捨て去ることのできない想いを物語っている。
 このシーンこそが,この映画の本当のクライマックスであり,本当の結末であるのだ。