この映画は原田知世主演の旧作の続編的な構成となっている。
仲里依紗の演じる主人公芳山あかりは,旧作の主人公芳山和子(本作では安田成美)の娘である。
旧作の主人公芳山和子は,深町一夫にかつての約束を伝えるため,タイムリープの薬を作るが,交通事故に遭い,行くことができなくなってしまう。あかりは母の代わりに深町に会って伝言を伝えようとする。
母の作った薬を飲んで1974年にタイムリープし,母からの伝言を深町こと未来人ケン・ソゴルに伝え終えたあかりは,2010年に帰らなければならない。
1974年にやってきたあかりを助け,深町に会うことの手伝いをしてくれた映画監督志望の大学生涼太は,病気で倒れた父に会うため秋田に帰るが,あかりがもう帰らなければならないことを知らずに,あかりに撮り終えた映画のフィルムを渡して,すぐに東京に帰ってくるからと言う。
あかりは,自分が未来に帰ることを言えずに涼太が大学の実験室を出て行くのを見送り,「帰ってきたら,もう私はいないんだ」とつぶやいて涙を流す。
この仲里依紗はとても可憐で,まさに時をかける少女のお約束と言うべきシーンである。
しかし,このあとストーリーは残酷な展開を迎える。
あかりは,涼太が乗ろうとしているバスが事故に遭って乗客全員が亡くなることを思い出し,彼がバスに乗ることを必死になって止めようとする。しかし,バスターミナルに現れたケン・ソゴルは,どんなに残酷な運命でも未来から来た者がそれを変えてはいけないと言って,あかりを止める。
あかりは,ケン・ソゴルの腕を振り払い,「それなら私はここに残る」と叫んで帰るためのタイムリープの薬を地面にたたきつける。そのときの仲里依紗の演技は,両足を踏ん張って掴まれた腕を力一杯振りほどこうとし,声も可憐な少女のものではなく,お腹の底から心の叫びとして発せられた太い声である。あかりが止めようとしているのは,物語の中の死でもなければ,過去の世界の死でもなく,目の前にいる自分の大切な人の本当の死なのだ。この演技で,仲里依紗の時をかける少女は,切れば血が出るような物語になった。
しかし,あかりの願いは叶うことはなく,ケン・ソゴルに記憶を消され,2010年に戻される。ただ,ケン・ソゴルはあかねが託されたフィルムだけは,彼女のポケットに戻してやる。
あかりの母は,あかりの伝言のおかげで,2010年で深町ことケン・ソゴルと再び会うことができた。
2010年に戻ったあかねはすっかり涼太のことは忘れているが,ポケットに入っていたフィルムが気になり,父から8ミリ映写機を借りて友人達と映写してみる。
それは70年代の学生が撮った素人映画であり,一緒に見ていた友人は退屈さを隠そうともしない。
しかし,そこに映っていたのは,あかりが涼太と過ごした日々そのものなのだ。画面に映るちゃちな未来都市の模型を地震のように揺らしているのは,映画作りを手伝っていたあかりだ。涼太や仲間達(その中にはあかりの父もいるのだが)と一緒に作ったいくつかの場面。そして,ラストシーンで桜並木を後ろを向いて去っていく少女は,涼太が撮影したあかり自身なのだ。あかりと涼太が一緒に過ごした日々がよみがえる。そして,バスターミナルでの出来事も。
記憶を失ったあかりが,この映像を見ても何も気づかないとしたら,それは悲しすぎる。私たちがそう思って見ていると,あかりの眼から涙がこぼれ出す。あかりは,なぜ自分が泣いているのか分からないと言うが,涼太と暮らしていたときのあかりの心と現在のあかりの心,そしてこの映画を見ている私たちの心がつながる瞬間である。
あかりは,涼太の映画のラストシーンの桜並木に再び立つ。しかし私達は18歳のあかりが,56歳の涼太とこの桜並木を一緒に見ることはできないことを知っている。
「時をかける少女」史上,いちばん悲しいストーリーである。