李明博大統領の思惑 | 永田町異聞

李明博大統領の思惑

「10年以内に世界の7大経済大国にしたい」と米国で構想をぶち上げて日本へやってきた17代韓国大統領、李明博。「日本に謝罪しろとは言いたくない」と対日重視をアピールしてのぞんだ福田首相との首脳会談だったが、どうやら思い通りというわけにはいかなかったようだ。

なにより、両国首脳の思惑の食い違いが鮮明になった。日本側は北朝鮮問題での“共闘”が肝心だが、景気悪化が深刻化する韓国側はあくまで「経済」だ。

韓国は、対日赤字が3兆円にものぼる貿易不均衡を是正したい。ところが、国内に素材や部品の産業が育っていない。日本から半導体関連の部品などを輸入し、国内で製品に組み立てて、海外に輸出する構造だ。これでは、輸出量が増えるほど、対日赤字も増加する。

そこで、李大統領が考えたのは韓国国内に日本の部品・素材企業を誘致することだ。首脳会談で李大統領は、日本企業の対韓投資を促進するため、韓国に「部品・素材専用工業団地」を設置したいという意思を示した。

韓国が、すぐれた日本の「部品・素材産業」からの技術移転をのぞんでいることは明白だ。これについて、日本の経済界の反応はあくまでクールである。まずは関税の撤廃や、さまざまな経済領域での連携をはかるEPA(経済連携協定)交渉を再開してからだ、という姿勢を崩していない。

盧武鉉時代、韓国とギクシャクした関係にあった日本からみて、李明博は期待のもてる人物には違いない。北朝鮮に対する盧武鉉の「太陽政策」を真っ向から否定しているからだ。ところが、日本のマスコミの報道には、随所で警戒感も垣間見える。「歴代の韓国政権は発足直後は日韓の関係強化を掲げつつ、途中で路線が変わるのが常だ」(日経)というような論評である。

「CEO大統領」と呼ばれ、経済危機に瀕する韓国の救世主として期待されるものの、景気が浮揚しなければ、一気に人気は落ち、またぞろ「歴史認識」の問題がぶり返される恐れがある。そういう懸念を日本のマスコミは拭いきれないのだろう。

李明博は大阪市平野区で1941年に生まれた。日本名は「月山明博」。3歳のころ、乳牛牧場に勤めていた父の故郷、韓国・浦項に一家8人で渡り、4畳半2間で極貧の生活を送った。やがて、朝鮮戦争。8歳の明博は、米軍の誤爆により、自分の目の前で姉と弟を失った。

「貧しいものが金持ちの助けを望んでいたら一生そこから抜け出せない」。それが母の教えだった。自分の力で人生を切り開く強靭さが、しだいに彼の体内で育っていった。

65年、現代建設に就職した李明博は9年後に副社長にのぼりつめた。社員1万人の企業の社長になったのはなんと35歳のときだった。「仕事をせよ、もっと仕事をせよ、死ぬまで仕事をせよ」。ビスマルクのこの言葉を好んだ。

のちに、ソウル市長になり、高架道路に覆われていた清渓川(チョンゲチョン)を復元する大プロジェクトに挑戦。激しく反対する周辺住民を説得し、わずか2年あまりで事業をやり遂げた。

「経済合理性」が彼の行動原理だという。現代建設は日本企業と組んで事業を展開した。元伊藤忠ソウル支店長、島田敏生はテレビ番組でこう語った。「日本企業ははハードを売る。現代建設がシビルワーク(現地土木工事)をやる。李明博は日本のハードが良いと割り切っていた」

李明博大統領は共同記者会見で「経済格差を放置したまま経済連携協定を結べば、格差はさらに拡大する。企業間の相互協力により、両国がウィンウィンの関係になるよう進めたい」と強調した。

日本企業を知り尽くした大統領のもとで、韓国経済が再び輝きを取り戻せるかどうか。日本の政治家に最近見られなくなった、たたき上げのエネルギッシュな指導力に期待がかかる。

                           (一部敬称略)

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