男は早朝に

玄関で
紐のついた靴を履き家を出て
満員電車に乗って会社という
箱に向かう


男の血を分けた娘は
まだ布団の中で夢を見ているだろう


朝から汗と最近流行りの
キツい柔軟剤と
コロンのにおいに取り囲まれて
横に横にと揺られながら

自分の前の席に座った
若い女のスマホの画面の片隅に目をやる

その場所にいながらにして
人と人とを繋げる事ができる箱だ


都合のいいネットワーク

伸びるゆるやかな鎖



男はネクタイに手をやる

癖のようなものだが


男の首を幾重にも縛り付ける
鎖のようなものを具現化した形を
自ら確認する儀式


指に男の娘の柔らかい手の感触を感じたような気がした


甘い紐だ
舌足らずな声で
おとうさんと男を呼び止める

血縁という愛情なのか義務なのか
わからない絆


窓の外に目をやると
人と人との隙間から見える
うるさいくらいの
鮮やかな色合いの広告


似たような顔が
似たような笑顔を振りまいている


家族の為に
家族の笑顔の為に


それならば
自分のアイデンティティは
何処にあるのだろうと男は思う



会社という箱の中では
No をYes といい
下げたくない頭も下げ


情報の収集
資料の整理と顧客獲得に奔走する
横並びでフライングは許されない

さりとて
遅れることも許されないのだ


こけこっここけこっこと
鶏のようだ
卵を生まない奴はいらないと
みな一様に言うのだ


強者の論理
命すら経済の範疇の中で存在する





男はまた席に目をおとし
若い女のスマホを操作する手を見る
なめらかな皺の無い手


恋愛結婚をした筈の妻の手は
どうだったかな

男は思う


思い出せないのだ
それどころか顔すらあやふやだ

わりとかわいいと思う
タレントの女の子の顔は思い出せる


男は情けないとは思うが
仕方ないとも思う


顔を見て話をしたのはいつだろう


男は妻を
彼女の名と彼女の姿では見ていないのだ
男の娘を生んだ女

都合のいい共同生活者だ



家という箱の中に入れば
男は父親で夫で


かつて
一人気ままに過ごした自分ではない


幼い頃の
自分が自分の為に存在し
自分の為に世界が愛が回っている
魔法の時間を過ぎ




形を変える箱と箱の中身に
翻弄される男のアイデンティティ



心の臓を
得体のしれない何かに
鷲掴みにされるざらついた感触


踏んだ足すら
地面についているかどうか


あやうい







ことん



………と、何かが落ちる音がする









2016.9.28筆



2016.10.3
再加筆修正