293.文先生は我々にも悪魔との闘いを知り共に闘うよう許諾された。【父の祈り】 | 和敬清寂 ~書かぬが仏~

和敬清寂 ~書かぬが仏~

ブラウザーのタブ
□マークの記事はシリーズもの。
└ と├ のマークはカテゴリー分類された記事。
※どちらも最大10件分の記事を表示

文先生が1956年5月16日に祈られた内容が非常に深刻である。

全文が太字赤文字になるべき重厚な祈りであるが、特に強調する部分のみそうした。


「父の祈り 6 孝心編 
6-01」 または 「文鮮明先生の祈祷 韓日対訳 上巻 祈祷176」

お父様を慰労する孝子とならせてください



今日、私たちは
悪なるものを見ても感覚がなく、
不義で未熟であり、
天倫のみ旨に対する苦痛に満ちた心情を抱いて
責任を感じることができない
でおります。

怨讐を殲滅しようとする心と、
恨みに徹する哀切さがなかった私たち
また闘いの実績を持てなかった私たち
全能の神様を信じることができなかった私たちでした。
天に対するイエス・キリストの忠誠を知りませんでした。

イエス・キリストを立てて誇ろうとなさったあなたのみ旨が使徒たちを通して、歴史を経て、今日の私たちに連結され、そのみ旨が私たちで結実されることを望んでいるということを知らせてくださり、生命をもらったという歓喜に加えて、数千万の聖徒たちが歓迎することのできる中心的な責任が、今日、私たちに任されているということを、知るよう許諾してください。

今、私たちが天と地と万物、そしてイエス・キリストの恨みを解くための祭物となるよう許諾してくださり、誠心誠意を込める、孝心ある子女たちとなるよう許諾してくださいますことを、お父様、懇切にお願い申し上げます。

お父様!きょう私たちの一個体と、私たちに天の解怨のための責任が任されており、天の恨みを解いてさしあげるための闘いが、私たちによって終結されるべき事情があるということを分かるよう許諾してください。

このようなことを知りましたので、だれよりも実践しようという心、お父様に感謝することのできる心だけ持つよう許諾してください。

十字架を担っても感謝であり、億千万のサタンたちと闘うとしても、お父様の前に卑屈な者たちとならないよう許諾してください。

十字架を負い、困難な立場に立つとしても、「お父様! 私がおりますので心配しないでください」と言える子女たちとなるようお導きください。

困難な立場に置かれている子女たちを見て悲しまれるお父様を、慰労してさしあげられる子女たちとなれるよう、許諾してくださいますことを懇切にお願い申し上げながら、すべてを主のみ名によってお祈り申し上げました。アーメン。
(一九五六年五月一六日)
----------


冒頭の「悪なるものを見ても感覚がない~イエスキリストの忠誠を知らなかった」は当然、文先生の事を言っているのではない。悪魔の呪詛にボカされた信徒の現状を憂いて祈られた内容であり、今日の統一教会に関わる全ての人々の現状をも現している。


さらに文先生は明確に、「億千万のサタンと闘う神の民は卑屈になるな」と、神の民はサタンと闘うものである事を前提として祈られている。


そして怨讐を殲滅させる心と、恨みに徹する哀切さ闘いの実績をもって天の恨みを解く戦いに勝利して終結させねばならない事情が分かるように許諾して下さった。

言い換えれば、神の民が悪魔との闘いに勝利すべき天の事情を、神は既に知るようにされているという事である。

さらに言うと、神様が知らせているにも関わらず、それを感じる事もできず、悪魔殲滅の闘いを知らず、悪魔と闘わない者は文先生の弟子=神様の民ではないという事である。


安易に「お父様、心配しないで下さい」と祈る人がいるが、文先生の場合は億千万のサタンと闘ってボロボロに傷つきながらも神様を慰労し発せられた祈りであり、神の民が文先生のような闘いをしてもそうであれ、という意味でもある。


天国を作るための最終関門は実体の悪魔との闘いに勝利する事である。神とメシヤだけにその闘いを任せてしまうのではなく、神の子自身も悪魔との闘いを引き受ける、そういう者こそメシヤの代身者であり、氏族メシヤであり、「新しい天と新しい地」に住む者なのである。横的に大過なくうまくやる家庭を作れば良いというものではない。


悪魔との闘いに勝利せずして神の国は無い!

 土下座2よろしければクリックをお願いします!
にほんブログ村