267.統一教会の祝福家庭は最も厳しい審判を受ける | 和敬清寂 ~書かぬが仏~

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西暦70年  エルサレム陥落
西暦135年 イスラエル滅亡
     殆どの男子は殺害され、女子供は売り飛ばされる。
     エルサレムにブタの彫像が置かれユダヤ人追放。
     わずかに生き残った者は流浪の民へ。

神が数千年間守り育ててきたヤコブの子孫、イエス、モーセ、ダビデ、ソロモンを生んだイスラエルびとはイエスを殺害した後すぐに滅亡。そして神の祝福と摂理の中心は異邦人に移った。

こうして「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。 (ルカによる福音書23-28)」のイエス様の言葉が成就した。


統一教会の祝福を受けた者が、その歴史の事実を他人事のように思っている。

御旨の道 P.484 「祝福を受けた神の家庭は、既に恐ろしい名前であり、恐ろしい立場である。それは実体と血統と心情に責任を持った立場であるからである。」

「神の民が責任を果たさない場合、その民は滅び、神の祝福は取り上げられて全て異邦人に移る」=「統一教会にて文先生から祝福を受けた者は間違いなく滅び、教会以外の異邦人に摂理の中心が移る」

文先生は教会内の悪魔族にも祝福を与えられたが、滅ぶ時は皆一緒である。


マタイによる福音書 21-38
「すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。

イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。

それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。



「自分達は天国に行ける」「少なくとも自分の子孫は繁栄するに違いない」。この教会にはそう信じて疑わない人が多い。その自信はどこから来るのか、根拠不明。


自分たちの幸せ、繁栄や栄光を願い、神様の国の実現を忘れた者は既に神様とは関係のない烏合の衆。

イエス様は「私に向かって”主よ、主よ”という者ではなく、天の父の御旨を行う者が神の子(マタイ7-21)」だと明言されており、天国に入りたい者ではなく天国を作る者が呼び集められ、祝福問答でも神様の前でそのように誓ったはずである。



世は最終末期。

「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである (ヨハネ黙示録21-3)」

この時代を迎えられるかどうかが掛かった決戦の時を迎えようとしている。

「彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る(ヨハネ黙示録17-14)」とある。


戦いを挑んでくる悪魔に打ち勝ち、勝利を得た者しか「新しい天と新しい地を見る」事はなく、神様が悪を裁いてくれて、自動的に地上天国ができるのではないのである。


神が今までの教えを通して願うところが、霊的天国ではない。我々生活中の天国である。(文鮮明先生の日本語による御言集 1 P.25)

神様はこころの天国を求めてこられたのではなく、実体の天国であるため、この戦いは実体の戦いとなる。

「わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。(黙示録21-22)」

この世界は、悪魔との戦いの中で磨かれ、自らの内に神の光を宿した者でなければ実現し得ない。


「もはや再臨など無い」と考え小市民化しているクリスチャン同様、「天国は家庭から」という30年前の御言を未だに唱えながら、一向に実体の天国を作れず、神様の頼りにならない者を、最後の戦いに神様が用いて下さるはずが無い。


神様から最も愛された者が、最も神様から遠くなる。残念だが、ほぼ間違いなくそうなってしまうだろう。


改めて言う。

悪魔側の民よりも、神側の民の無責任のほうが、遙かに罪は重い。


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