18.”成約聖徒だ”とうぬぼれるな! | 和敬清寂 ~書かぬが仏~

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イエス様は、
悔い改めない地域の人々には
「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ」
「カペナウムよ。・・・黄泉にまで落とされるであろう」
と語り、一切許されなかった。

さらに、宮殿で商売する輩を追い出し商売道具を叩き壊した。

決して甘くはない。

(マタイ11章20)
それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。
23章 ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。
(マルコ11章15)
イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。



イエス様は「悪」には容赦無く、
そこには一切の妥協が無かった。

新約信仰は「お花畑」の如く、甘いものではない。

初期キリスト教が凄まじいものであったことは誰もが知っている。
その基準が無ければクリスチャンではない。

十字架上で殺される事を厭わぬ、これがクリスチャンのこころ。

武士の切腹、これに通ずる、命がけの信仰。



文先生は、「踏み絵を踏んで生きればよい」と言ったのは、
簡単におっしゃった訳ではない。

死をも厭わない基準がなければ
「踏み絵を踏む資格すらない」のである。



神様への深い信仰のない異邦人は「犬」や「ブタ」扱いである。

(マタイ7-6)
「聖なるものを犬にやるな。ブタに真珠を投げてやるな。
恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、
向き直ってあなたがたにかみついてくるであろう」


しかし、神様に帰依しない異邦人が、
神側へと心を入れ替え、その心が真実であれば受け入れたのだ。


「私は、イスラエルの失われた羊以外の者には遣わされていない。
パンを子犬に投げてやるのは、よろしくない。」

女が「主よ、子犬も落ちたパンくずは頂きます」と言うと、
イエス様は女の信仰を褒め、願いを聞いた。

マタイ15章21 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。


人殺しは、「心から申し訳なく、自分の命を捧げてもかまわない。どうか私を殺してください」という砕かれた心情がなければ、イエス様の愛と許しを施しようがない。

「こころでは既に死んだ」との条件が成立しなければ
許しなどあり得ないのである。

「愛と許し」とは旧約の「目には目を、歯には歯をの精神」の土台無しには成り立たない。

イエス様が異邦の女を受け入れたのは、そこまでの”覚悟”を認めたからである。


「”落ちたパンくず下さい”とはうまいねぇ!!座布団一枚!」 ではない。

悪魔信仰文化に育ったこころを洗い清めて、神様への信仰に向かいたいとする砕かれた心情を見たイエス様は、許すしかなかったのである。

これが「汝の敵を愛せよ」である。
何の条件も無く許す事が愛ではない。

それはただの”甘やかし”。 悪を繁殖させるだけだ。


許しは「悔い改めた悪人への許し」であり
悪を許さない事が大前提。
悪事は、償う事が大前提。


「右の頬を打たれたら左の頬を向けよ」は、
悔い改めが可能な神の民に対して、である。

悔い改めるこころが無い異邦人に対して、安易に使うべき言葉ではない。
御言の精神が腐る!


では、成約聖徒とは
旧約、新約を越えていなければ、そもそもが成立しない。

立派なクリスチャンは、悪口一つ言わない。
言葉で人を殺す事をしない、これを命がけで守っている。

この基準を超えていない者が神の国建設に向かえば、
ただの”活動家”になって精神が朽ち果てて滅んでいく。


「心情蹂躙の罪」という言葉が出てくる時点で失格である。
そんな事は当然すぎて話にもならない。


「わざわいだ、韓国よ。わざわいだ、中国よ」
「聖なるものを韓国にやるな。中国に真珠を投げてやるな。」

現代なら、こう言うべきところを、そう言えない。

彼らは「足で踏みつけ、向き直って噛みついて」きているではないか!


真実に悔い改めたかどうかを、冷徹に見極めるような
研ぎ澄まされた霊性がないために、
そう言い切る自信がないからである。


極めて甘ちゃんである。
旧約以前の段階から出直して来なさい。


それとも、成約聖徒との称号を捨て、この道を去れ!

文先生を手本として前へ進めない者が成約聖徒と名乗る資格など無い!

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