先輩ママさんと話しをしていたときのこと。

 

先輩ママさんの娘さんもあららひめと

同じく繊細さん。

 

先輩ママも私と同じく繊細さん。

 

 

繊細さん先輩ママと自称繊細な私と

子育てで共通の話題が多くて色々

話をしたんだけど。

 

 

自分の娘を見ていると

育てていると自分と全く

同じと感じる特性があって

 

すごく子どもに共感できるから

 

共感してしまうからこそ

 

親が先回りして

 

子どもの経験の機会を摘んでしまう

こともあるよねって話をしました。

 

 

小さい自分が過去に

それに傷ついたから

子どもがそうならないようにしてあげて

しまう。

 

これって一見、愛があるようで

愛ではない。

 

コントロールの視点に入ってしまって

いるんだよね。

 

 

傷つかないように子どもをコントロール

する親のエゴ。

 

 

 

 

苦しんでいる最中って

どんなに的を射たアドバイスであっても

 

聞き入れることができない

言葉が自分の中に入って来ない

ってことあるよね。

 

 

これと同じだと思うんだよね。

 

 

親がいくら障害を取り除いてあげた

ところで、本人に必要な経験なら

必ず後で同じことは起こるし

 

逃げれば逃げるほど

親がどかせばどかずほど

 

先延ばしになり、ややこしくなるだけ。

 

私たちが子どものころと

時代も風潮も違うし

そもそも同じことが起こるか

どうかも分からないのにね。

 

親が子どもに自分を投影して

自分のトラウマをなぞる。

 

 

 

苦しみや悩みであっても

それは子ども自身にその時に

必要だからおこっている。

 

ただそれだけ、のこと。

 

 

本人が苦しんで悩んで

納得したときにしか超えられないもの。

 

 

 

親が介入して解決できるものじゃない。

どんなに介入して助けても

子ども本人が腹落ちしない限り

繰り返す。

 

 

問題の渦中に人の素晴らしいアドバイスが

聞こえない、それと同じこと。

 

 

私はそうだった。

 

親から

「こうした方があなたのためだから」

 

そう言われて自分が納得せずに

従ったことに

 

いいことなんてなんもなかったニヤニヤ

 

 

親からもらったアドバイスを元に

自分で納得して自分で決めたことに

対しては後悔はない。

 

 

 

 

親は永遠に生きないし

 

親が全ての障害物を片づけることは

できない

 

 

そして子どもの人生は子ども

本人にしか責任は取れない。

 

 

どんなに小さかったとしても

あららひめの人生の決定権は

あららひめにしかない。

 

 

だから、それがその時に辛い

切ない経験だったとしても

 

あららひめの生きる力。

 

守られていることを信じて

 

見守ること。

 

泣いてきたら抱きしめて

受け止めること。

 

家があららひめにとっての

絶対の安全地帯であること。

 

 

世界中の全部を敵にまわしたとしても

(そんなことは絶対にないんだけどねw)

 

ママは絶対にあららひめの味方だからね。

 

 

これを書いていたら

 

私が思春期で反抗期で

全部、父親に反発していた時に

 

死んでしまいたいと思ったときに

 

父が私に言ってくれた言葉だったことを

思い出して泣けた。

 

 

私はこんなにも愛されて育てられた

ことを思い出す。

 

 

あんなに去年まで憎んできた父に。

 

私もずいぶん手放しが進んだもんだ照れ

 

 

 

あららひめにもたくさんの溢れるほどの

 

愛を光を伝えたい。

 

 

きっとあららひめも、

愛と光を届ける人だから。

 

 

『そこに愛はあるのかい?』

 

 

子育ての最中に

ふと、立ち止まって

 

時々、自分に問う。