今日は長くなるんですが、まずは
結弦さん、2回目の紫綬褒章受賞
おめでとうございます。
またひとつ、あなたを守ってくれるものが増えましたね。
褒賞の名に恥じない人生をと
あなたは言うけれど、
褒賞はあなたを守る盾でもあるはず。
全日本で初めて勝ったころ、あなたは丸腰に近かった。
そんなあなたに向かって、アンチが放つ矢が飛んで行った。
どんなに痛かったことだろう。
いいえ、違うよね。
ソチで勝っても
世界選手権で勝っても
どんなに多くの賞をもらっても
痛いものは痛かった。
あなたを守る盾は増えても
矢が飛んでくるのに変わりはなくて
盾の内側のあなたの心は繊細で
それは五輪連覇の今も変わらない。
突然ですが
文学において、「作品が作者の手を離れて独り歩きし始める」というのは、
作者が意図しなかった読みができることを言います。
たとえば、「源氏物語」が語る女性の苦悩が、その1000年後の社会でも共感を呼ぶなどと
紫式部は思いもしなかったでしょうが、
「The Tale of Genji」 written by Lady Murasaki は、
時代を越え海を越えて、価値を持ち続けています。
それは作者が意図した結果ではありません。
紫式部は、1000年後のアメリカ人に向かって語りかけたわけではない。
けれども、21世紀のオーストラリア人女性にも源氏物語は「読める」。
紫式部の時代と社会から遠く離れたところでの「読み」は
作者紫式部からすでに離れた「源氏物語」という作品の「読み」であるわけです。
繰り返しますが、紫式部がそのように語り掛けているのではなく、
私たちが、彼女の書いたものをこのように読んでいるのです。
「読み」の可能性を探る作業をしているのです。
何を言いたいか?
CwWにおいての羽生発言。
その解釈があちこちでなされていますが、
「解釈」はあくまでも「解釈」に過ぎないということを言いたいのです。
彼は自分のことを語った。
自分以外にもあるかもしれないけれど・・・というようなことは言いましたが
彼は自分の問題として語った。
それを拡大解釈し、彼が社会に向けて「いじめ根絶」を訴えたのだ、という意見がありますが、
それはたしかに彼の心の中にそういう思いがあるかもしれない、ある可能性は高いけれども、
私たちはそれを
「彼がそう言いたかったのだ」と断言するのではなくて、
「彼の言葉」を聞いた自分の解釈として、可能性の一つとして言うべきだと思うのです。
彼自身が明確に社会に向けてのメッセージとして発言したわけではない、そこの意図をくみ取りたい。
「彼も苦しんだのだよ、いじめは絶対だめなんだよ!」と叫ぶのは私たち。
叫ぶ主体は私たちであって、そこを彼にしてはいけないと思うのです。
もうひとつ。
「彼はもう大丈夫」と言った人がいます。
まだまだ矢は放たれ続けています。
盾は増えたけれど、生身の人間なのですよ。
言えるようにはなったけれど、心の痛みが消えるわけではないと思います。
これまで私たちファンの多くは彼のために大したことができなかった。
申し訳ないと思う後ろめたさがあります。
「彼はもう大丈夫」という言葉は、なにもしてこなかったこと、これからもなにもしないことの弁解ではないでしょうか?
彼の代わりに「大丈夫」と語ることは、
「大丈夫であってほしい」という自分の気持ちを語ったのでは?
ですから、本当は「私は、彼がもう大丈夫だと思う」のでしょう?
「彼は大丈夫」は彼を主体にしてしまった言い方です。
少し強烈に言えば、自分の恣意的な発言を彼の発言にすり替えた隠蔽工作ですよ。
「大丈夫だから、なにもしなくていいよ、私もなにもしないよ」ってことですよね。
羽生氏は、自分の行動については「ぼくはこうしたい」とはっきり発言します。
しかし、「こうしてほしい」ということはめったにありませんよね。
あ、スケートのできる環境を作ってほしいと言ってたか。
言葉、選んでますよね。
だから、私たちも気を付けたい。
自分たちの解釈を語るのに、彼を主体にしてはいけません。
解釈は可能性の一つに過ぎないのです。
ずいぶん長くなりました。最後まで読んでくださった方、お疲れ様でした。
ありがとうございました。