※今回の記事は、かなり個人的でセンシチブな話になりますので、「墓参り」や「父」といったワードに惹かれない方は、ぜひ読み飛ばしていただきたいと思います。


さて。


今年で85歳になった父が、「俺はもう死ぬ」と言っている。

と言っても、大病を患っているわけでもなく、ボケているわけでもなく、人生を悲観しているわけでもない。

正直、すぐに死ぬとは思えない(笑)


が。 


父が言うには、「俺の血筋は、みんな85歳くらいで亡くなっている。7年前に亡くなった兄貴も、去年亡くなった姉貴も、みんな85歳だった。だから俺も、85で死ぬんだ。」ということらしい。

そんなわけでこのところ、父の身辺整理をしている。


ある日、ふと、何かやり残したことはないかと父に聞くと、「実家の墓参りに行きたい。」と言う。

父は長野県の山奥で育ち、中学を卒業して間もなく、15歳で単身愛知に出てきて工場に勤め、それ以来愛知県で過ごしている。

そんな父が、自分が死ぬ前に、70年前に出た長野の実家の墓を参りたいと言う。

本来なら、父を実家に連れて行ってやりたいところであるが、父は膝を悪くしており、長距離の移動が難しい。


ということで、ワタシが代わりに父の実家の墓参りに行くことになった。

子供の頃、夏休みには必ず家族で帰省していた父の実家。

ワタシも大人になり、もう20年くらい訪れていないが、過去の記憶を辿りながら、父の願いを叶えてやりたい。

そう、この旅は、父の想いを届けると同時に、ワタシのルーツを辿る旅でもある。

お供えのお花と日本酒を買い、小淵沢駅から、2両編成の小海線に乗り込む。
子供の頃、父が運転する車から眺めていた景色を、今は電車の中から眺める。
小海駅に到着。
ここから2時間かけて山道を登り、父の実家へ向かう。
子供の頃の夏休みの記憶を頼りに、ずんずん進んでいく。
道中、不思議と父のことを考えてしまう。
思えば、ワタシと父との関係は、全く良好とは言えなかった。
中学生くらいから反抗期に入ったワタシは、工場でひたすら働いて、休みはパチンコに行くだけの生活を送る父のことをつまらない人間だと思い、反面教師のように捉えていた。
オレは、絶対にこんな退屈な人生は過ごさないぞ、と。
そんなワタシは、自分の進路や生き方に関し、事あるごとに父と衝突した。
父の性格も、好きではなかった。
普段はヘラヘラと冗談ばかり言っているのに、何か気に入らないことがあると、突然爆発する性格。
二つ上の兄は、そんな父をスルーすることができる性格だったが、母と姉とワタシは言い返さなければ気が済まない性格だったので、言い返しては怒鳴り返されていた。
ビール瓶を持って、追いかけられたこともある。
母が泣いているのも、当たり前のように目にしてきた。
そんな父は次第に孤立して行き、会社の友人と出かけることもなくなれば、母方の親戚の集まりにも来ないようになった。
ワタシも当然のように、そんな父と距離を置くようになった。
大学生になり、ある程度世の中のことが分かるようになると、ワタシは父のことを「中卒で工場勤めしか選択できなかった、孤独な偏屈オヤジ」と捉えるようになった。
そう考えると、楽だった。
今思えば、父の孤独の裏にあるものを、敢えて見ないようにしていたのかもしれない。
その後、父とは一定の距離を保ったままワタシは就職、結婚し、子供を設けた。
就職も結婚も、父には全く相談することなく自分で決めたので、特に父から助言をもらったりはしていない。
覚えているのは、就職した時も結婚した時も子供が産まれた時も、これまで見たことがないような笑顔で喜んでくれたことだけだ。
父の実家に着くと、叔父(父の弟)が待っていてくれ、お墓まで案内してくれた。
「○○家」と書かれた立派なお墓に花と酒を供え、お参りを終えると、叔父が別のお墓を案内してくれた。
かなり古びて、文字も読み取れないくらいの侘びしいお墓。
叔父が、「これがお前の本当の祖父の墓だ。」と言う。
話には聞いていたが、父の父(ワタシの祖父)は戦争で若くして亡くなっており、その後、父の母が再婚したことにより、父の実家は続いている。
お墓を案内してくれた叔父は、父の種違いの弟ということになる。
・・・あぁ、そうか。
父がワタシに墓参りを依頼したのは、単純な墓参りが目的ではなかったのだ。
父は、ワタシの実の祖父の墓を参らせることにより、自分の本当のルーツを確認させたかったのだろう。
愛知に帰り、今回の墓参りのことを父に報告すると、これまで一度も話してくれなかった幼少期の実家でのことを話してくれた。
父が5歳の時に、実の父親が戦地で亡くなったこと。
その後、母が再婚した養父から冷遇され、父親らしいことをしてもらえなかったこと。
高校にも行かせてもらえず、中学を卒業して愛知の工場に就職したこと。
育ての親には、愛情というものを注いでもらった記憶がないこと。
父は、いつも孤独だったのだろう。
長野の実家では、頼る人がいなかった。
15歳で単身愛知に出てきて、そこでも頼るものが何もない中、必死に働いて、結婚して、土地と家を買って、子供3人を育て上げた。
もちろん、家庭のことを全て担ってきた母の支えがあってこそなのだろうが、当時の父が背負っていたものの重さは、ワタシが今抱えているものとは、比べられないほど大きかったに違いない。
暴力や暴言を正当化するつもりはないが、父にも言い分はあったはずだし、それを聞いてあげられる人がいなかったから、父はどんどん孤独になっていったのだろう。
今回の旅で分かったことは、自分が父のことを 全く理解していなかったということ。
何十年も一緒に過ごしながら、人は、こうも理解し合えないものなのだと驚いた。
あの時父が、「俺だって大変なんだよ・・・」と弱さを見せてくれていたら、とも思うが、当時のワタシにそれを受け止められる器量はなかっただろうし、父だって頼んでも弱音など吐かなかっただろう。

最後に。

父の良いところは、人生を全く悲観していないことである。
急に怒ったり、スネたり、頑固だったりするが、いつも楽しそうに、前を向いて生きている。
だからだろうか、7人いる孫たちには、なんとなく好かれているようだ。

おわり。