ある日、サンボはおかあさんと、大好きな回転すし屋に行きました。
 サンボとおかあさんが店に着いたとき、店はすいていました。
 ところが、二人が席に着こうとしたとたん、大勢の男たちがどやどやと店に入ってきました。みんな人相が悪く、感じの悪い人たちでした。
 男たちは、サンボに、「おい、どけ」と言い、サンボたちを押しのけて席につきました。
 あっという間に、回転すしのカウンターは男たちでいっぱいになってしまいました。
 しかたなく、サンボとおかあさんは、後ろの順番待ちの席に腰かけました。
 男たちは、Tシャツ姿で、二つのグループに分かれているようでした。
 一つのグループのTシャツには、背中に「友愛」と書かれていました。
 もう一つのグループのTシャツには、背中に「責任力」と書いてありました。
 「感じの悪い人たちだね」とサンボはおかあさんに小声で言いました。
 「昼間はいい人ぶってるんだけど、内輪では地が出るのよ」おかあさんも小声で言いました。
 そのうち、「友愛」の男たちと、「責任力」の男たちは、口々に「オイ、板前、早くトロを握れ」「コラ、板前、早くウニを流せ」と騒ぎ始めました。
 「高いネタばっかりだね」とサンボはおかあさんに言いました。
 「昼間は、私の好物はサンマとゲソです、なんて言ってるんだけどね」とおかあさんも言いました。
 そのうち、男たちは大きい声で言い争いを始めました。
 するとどうでしょう。おどろいたことに、だんだんカウンターの上のベルトコンベアの回るスピードが速くなってきました。
 サンボがびっくりしていると、横からおかあさんが「この店はね、早くお皿をとりたいお客さんが、右わきのボタンを押すと、ベルトコンベアのスピードが速くなるのよ」と教えてくれました。
 どうやら、たくさんの人が右わきのボタンを押したようで、ベルトコンベアのスピードはどんどん上がり、目にも留まらぬ速さになっていきました。
 「こんなに速くちゃお皿が取れないじゃないか。もっとスピードを落とさないと」サンボは心配して言いました。
 「この店はね」おかあさんは言いました。「ベルトコンベアのスピードを上げることはできるけど、遅くすることはできないのよ」
 「じゃあどうしたらいいの?」
 「お客さんの左わきのボタンを押すと、座席が同じ方向に回るのよ」とおかあさんは言いました。
 そのとおり、男たちは左わきのボタンを押したようでした。するとどうでしょう。男たちのすわっている席も、同じ方向に回りだしたではありませんか。
 「これで調節して、おすしを食べるのよ」とおかあさんは言いました。
 ところが、どうやらたくさんの人が左わきのボタンを押したようで、座席の回るスピードはどんどん速くなっていき、とうとうベルトコンベアのスピードを追い越してしまいました。すると、男たちは右わきのボタンを押し、ベルトコンベアの回るスピードもさらに速くなっていきました。
 こうして、ベルトコンベアと座席はどんどん速度を上げて回り続けました。サンボは目を回して、気を失ってしまいました。
 どのくらいたったでしょう。サンボが正気づくと、座席にいた男たちはみんなバターになっていました。
 サンボは、そのバターを集めて、おかあさんにホットケーキを焼いてもらいました。
 でも、サンボは、そのホットケーキをあまりたくさん食べられませんでした。
 なぜなら、そのバターはにがい味がして、おいしくなかったのと、なによりホットケーキは、おすしに合わなかったからです。

おわり
 夕暮れの小田急下り線車内は、座間を過ぎたあたりにもなると、乗客はまばらだった。寒々とした車内を、斜めに差し込む夕陽の暖気が辛うじて補っていた。
 四号車の隅に並んで座る3人の男の不自然さが、多くの人目に触れていないのは幸いなことだった。右に座る初老の刑事三塚と、それと同じような年恰好の真ん中の男の手は、冷たい手錠でつながれていたが、男物の古びたマフラーが、その存在を不器用に覆い隠していた。
 「ええ、次が海老名ですので、あとわずかで着きます。はい、そうです」左手の若手刑事大野は、低い声で携帯電話から署と連絡をとっていた。
 真中の男は、車中ではずっと、身じろぎもせずに俯いていた。目は深く閉じられ、白髪の混じる無精ひげに覆われた口は堅く結ばれていた。
 電車が海老名に近づくと、男はちらりと腕時計を見、やや落ち着かないそぶりで顔を上げた。そして右隣の三塚に低い声で言った。「・・・あのう」
 「・・・何だ」刑事は、男の顔を見ずに言った。「・・・。」二人の小声の会話は、レールの音にかき消されていた。
 「おい、降りるぞ」三塚に突然言われ、電話を切ったばかりの大野は虚をつかれた。
 「は?でもまだ海老名ですよ。本厚木まで・・・」
 「糞がしたくなった」三塚はそう言うと、ゆっくり立ち上がった。それにあわせて、男も立ち上がった。
 「糞って・・・」大野は、電車を降りる2人の後を慌てて追った。
 3人は無言で海老名駅の階段を上った。大野は左右を見回した。「えーっとトイレは・・・。あっすみません、トイレどこですか?」
 大野が駅員に尋ねている間もかまわず、2人は改札を出て左側の西出口に向かって歩いていった。 
 大野は慌てて追いかけた。「三塚さん、どこへ行くんですか?トイレはこっち・・・」
 
 2人は小田急海老名駅を左に出て、田園風景の広がる陸橋の上をまっすぐに歩いていた。
首をかしげながら、大野は2人の後を追った。夕陽は丹沢の上から、やわらかな光を注ぎ、3人の影を長く伸ばした。北風が3人に軽く吹きつけた。 
 3人は陸橋を渡りきり、相模線の海老名駅にたどり着いた。三塚は大野に言った。「厚木まで3枚だ」
 「は・・・」大野は観念して、三塚の指示に従った。
 小田急線と相模線は、この海老名から次の厚木までの2駅間のみ並行していたが、2人が、あえてここで相模線に乗り換えようとする意図を、大野はまだ飲み込めずにいた。
 改札を過ぎた3人は、無言で、体が離れぬよう階段をゆっくりと下りた。四両編成の相模線下り茅ヶ崎行きは、単線のすれ違いの上り線を静かに待っていた。
 3人は無言のまま、三両目の車両に足を踏み入れた。相模線の車両は、さらにがらんとしていた。しかし、三塚と男は、広々とした座席には腰掛けず、扉の近くに立った。
 
 相模線は、しばらく駅に停車していた。それはしかし、数十秒の出来事のはずだったが、あたかも止まった時間であるかのように感じられた。小田急線とは明らかに異なる、停車を楽しむかのような、静かな時間が流れていた。
 そこへ、上り線の電車がホームの反対側に入線してきた。男の目が鋭くなった。電車の扉がゆっくりと開いた。対面の扉から、2名乗客が降りてきた。男の目が何かを探し、そして止まった。
 視線の先には、ブレザーにネクタイという制服を着た、ショートカットの女子高生の姿があった。彼女は対面の扉の近くにこちらを向いて立ち、参考書を読んでいた。男は、ドアの脇に少し体を寄せた。彼女からすぐには見えないような、しかし、ややもすると見つかりそうな微妙な位置だった。男の目は充血していた。口がかすかに開いた。しかし、欲求と躊躇をないまぜにした男の、渇いた喉から、声が発せられることはなかった。
 女子高生は、そんな彼に気づく由もなかった。そして、その男の面影をたたえた顔を、上げることなく、ただ本に熱中していた。

 やがて、下り線の扉が、父の視線を遮るように、ゆっくりと閉まった。
 相模線は、動き始めた。
 「学校帰りか・・・」三塚がつぶやいた。
 「・・・・・。」男は黙ったまま、かすかに頭を下げた。
 無言の三人を乗せた電車は厚木に向かった。

 大野はようやく一部始終を知った。そして、来月定年を控えた、老刑事に刻まれた顔の皺の深さを改めて思った。最短距離を生きてきた顔じゃないと。
 
 相模線は厚木駅に着いた。再び3人は体を寄せ合って歩き始めた。大野は、改札口で、小田急線の本厚木行きの切符を3枚買った。
 「三塚さん、ずいぶん時間が遅れましたよ。署には何と報告するつもりですか?」大野はわざと明るく言った。「糞ですか?」
「そうよ」三塚は大野に顔を向けた。「糞をしたのはお前だ。いいな」三塚は初めてにやりとした。
 歩く3人の向こうで、夕陽が丹沢に沈みかけていた。  (完)
  名人戦の最終日、いよいよ勝負は大詰めを迎えていた。対局室を、緊迫した空気が包み始めた。
  優勢な局面で、勝利を確信する挑戦者、谷下八段は、名人が長考する間、詰めの手順を、頭の中でひたすら繰り返していた。
 ぴしゃり。やおら名人の手が動き、谷下の玉頭に駒を突きつけた。
 6八歩。
 既に何十通りもの名人の対応手を計算していた谷下だった。しかし、この手は彼の想定の外だった。
 6八歩。
 谷下は目を閉じた。
 
 谷下が将棋のプロへの登竜門である奨励会に入門したのは、ちょうど30年前のことだった。
 そこからの道は平坦ではなかった。彼は、なかなか勝てなかった。誰よりも研究した。誰よりも将棋のことを考えた。誰よりも駒を並べた。
 しかし、なかなか勝てなかった。

 奨励会の仲間や若手は、サークルを結成し、いろいろな戦法を共同で研究していた。時には楽しげな笑い声がこだまする横で、彼は黙々と盤上に駒を並べ続けた。
 他人と群れるのは好きではなかった。というよりも、敵味方に分かれるはずのプロ棋士同士が、仲良く戦法を研究するのは、自らの「戦いの哲学」に反することだった。

 時代は流れ、他の棋士たちは皆、パソコンを購入し、過去の棋譜をデータベースで管理するようになった。何万通りもの棋譜を容易に検索できるようになっても、谷下はそのようなものには見向きもせず、ただ、黙々と盤上に駒を並べ続けた。
 彼はハイテクが得意ではなかった。 というよりも、血と汗と涙のしみこんだ将棋盤や駒を使わずに、過去の熱戦譜を再現するなど、自らの「魂の哲学」に反することだった。

 他の棋士の多くは彼女をつくり、結婚していった。しかし、彼は動ずることなく、たった一人で、黙々と盤上に駒を並べ続けた。彼は女性にもてなかった。というよりも、名人位をとる前に棋士が結婚するなど、自らの「孤高の哲学」に反することだった。

 しかし、ついに、ここまで来た。谷下は他の一流棋士の3倍の時間をかけて、すこしずつ階段を上っていった。いや、階段を上がったり下ったり立ち止まったりしながら、ここまで来た。彼の棋士人生に、エスカレーターはなかった。ただ地道に、歩を進めてきた。自分の可能性だけを信じて。
 そして今年、ついに名人位に挑戦するチャンスをつかんだのだ。しかもあと1勝で、夢に見た名人になることができる。

 相対する名人は、対照的に、若いときから天才棋士との名声を得て、順調にプロ棋士のトップの座に駆け上がってきた。年齢も谷下より20歳近く若いのに、もう名人位を3期防衛している。電光石火の寄せに、「電光流」という異名をとっていた。
 電光流対鈍行流。マスコミは両者をこう評した。谷下が挑戦権を得たことにより、名人の防衛は確実と言うのが、もっぱらの下馬評だった。
 中年の星、がんばれ。谷下にはリストラ世代の代表のようなエールが出る始末だった。
 谷下は、そうした周囲の雑音に惑わされることなく、自分の将棋を貫き通した。
 変幻自在の名人の戦法に対し、谷下は常に矢倉戦法だった。しかし、彼の愚直なまでにオーソドックスな戦法が、名人に対し、一歩も引かない展開へと導いていった。
 ついに勝負は最終戦へともつれこんだのだ。
 
 そして・・・・6八歩。
 名人の、その一手が放たれた瞬間、対局室は凍りついた。マスコミの動きがあわただしくなった。
 それは、谷下だけでなく、観戦していた誰もが予想し得なかった手であることを表していた。そして、名人戦の対局が終焉を迎えたことも。
 今こそ、谷下ははっきりと言わなければならなかった。これまで、慎重に詰めへの手順を何度も確認してきた。しかし、もはや、それは必要なくなっていた。初の名人戦の晴れ舞台で、谷下は、その幕引きを自ら宣言しなければならなかった。もう躊躇いは許されない。
 谷下は、顔を上げ、名人の目をまっすぐ見つめて静かに言った。
 「二歩です」
 名人が畳に引っくり返った。    (完)