槙島(まきしま)合戦 (元亀4年(1573年)7月) Gou | 荒木村重研究会

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槙島合戦の舞台となった巨椋池(おぐらいけ)ですが、戦国時代、軍事的な拠点を持つ勢力と、古くからの特権を持つ漁師集団の二層構造で支配・管轄されていました。この池は周囲約16km、面積約800haに及ぶ巨大な淡水湖でした。

元々は縄文時代、三河川(宇治・桂・木津)の土砂堆積により出現。平安時代には歌に詠まれる景勝地として、また豊かな漁業(コイ・フナ等)と水運の拠点として栄えたのです。



1. 室町幕府・将軍の直轄地
戦国時代に入るまでは、山城国の要衝として室町幕府(将軍)の強い影響下にありました。池に浮かぶ「島」には幕府の奉公衆(将軍直属の家臣)である真木島(まきしま)氏などが拠点を置き、実質的な守備・管轄を担っていました。

2. 織田信長による直接支配(元亀4年・1573年〜)
戦国末期、歴史の転換点となる出来事が巨椋池で起こります。
• 槇島城(まきしまじょう)の戦い: 15代将軍・足利義昭が信長に反旗を翻し、巨椋池の中の島にあった「槇島城」に籠城しました。信長軍主力は、佐久間信盛、丹羽長秀 、柴田勝家、羽柴秀吉、 蜂谷頼隆、明智光秀、荒木村重、細川幽斎・忠興でした。
• 管轄の移動: 信長がこの城を攻め落として義昭を追放したことで、室町幕府は実質的に滅亡。巨椋池の軍事・交通の支配権は完全に信長の手に渡り、信長家臣の細川昭元らが管理を任されました。




3. 豊臣秀吉による管理(文禄3年・1594年〜)
秀吉の時代になると、「インフラ」へと管轄の目的が変わります。
• 伏見城築城: 秀吉は伏見を政治の中心とするため、巨椋池を大規模に改造。

• 太閤堤(たいこうづつみ): 宇治川を池から切り離し、堤防を築いて道路(大和街道)を通しました。これにより、池の管轄は「伏見城を中心とした兵站・物流システム」の一部として、豊臣政権の直轄管理に近い形となりました。




【現場の実質的な支配者:三郷の漁師】
武将たちが城を構えて争う一方で、池の「資源(魚介類)」を実質的に管轄していたのは、以下の3つの村の漁師たちでした。
• 東一口(ひがしいもあらい)村(現・久御山町)
• 小倉(おぐら)村(現・宇治市)
• 弾正町(だんじょうまち)(現・伏見区)
特に東一口の山田家(大庄屋)は「漁業権の総帥」として強大な権限を持ち、時の権力者(信長、秀吉、のちの幕府)から特権を認められることで、実務的な池の管理を行っていました。

歴史研究の観点から見ると、巨椋池はまさに戦国史の特異点といえる場所です。

明治の改修
巨椋池の分離 : 現在の桂川、宇治川、木津川の3つの河川が集まる京都府南部(久御山町周辺)にかつてあった巨椋池は、三川合流点から下流には、天王山と男山に挟まれた狭窄部があり、排水不良でたびたび洪水被害が起こっていました。当時も淀川改良工事において宇治川を淀の南へ付け替え、連続堤防を造ることで、宇治川と巨椋池を分離しました。





干拓による消滅
度重なる水害や衛生面の問題から、昭和8年(1933年)より国営干拓事業が開始。1941年(昭和16年)に完全に農地化され、湖としての姿を消しました。


• 現在の姿
現在は広大な京都府下最大の穀倉地帯となっており、地名や排水機場公園にその名残を留めています。