村重を詠んだ頼山陽(1780-1832)の漢詩
信長が村重に見せた「刀の先の饅頭」という威圧的な行為が、後に村重の謀反、明智光秀の本能寺の変に連なり、信長の最期に重なるという、非常に鋭い皮肉が込められた詩です。
月岡芳年《本朝智仁英勇鑑》より「織田上総介信長」、市立伊丹ミュージアム蔵
大意
いい男だ。(刀の先の饅頭を口で受けてくらうとは) 摂津の口の十三郡。お前の切り取りにまかせよう。
せっかく摂津を切り取ったお前だが叛いたので殺すことになった。 叛くに一言があってしかるべきだ。
私(村重)は饅頭の喰い方は知っていたが 摂津の喰い方は知らなかったのです。
(信長が村重に)饅頭の刀を突きつけた時に 伏線はあったのだろう。
そして、別の人(明智光秀)が同じようにあなた(信長)の腹に 刀を突きつけることになるのですぞ。
※ 叛くに一言があってしかるべきだ。
謀反を起こした村重の説得のため、秀吉、光秀、官兵衛などが説得のため次々と有岡城に籠る村重の元を訪ねますが、謀反の意思を翻すことはなかった。
(追記)
有岡城に長期籠城した村重に対し、信長方の攻めは続きますが、この間、村重は、嫡男・荒木村次の正室を危機を避けるため彼女の実家である明智家へ送り返し、人質だった高山右近の妹や子も解放。羽柴秀吉から説得の派遣に訪れた黒田官兵衛(くろだかんべえ)については、官兵衛の主君「小寺政職」(こでらまさもと)から官兵衛を殺害するよう依頼があったにもかかわらず、幽閉に留めました。
村重は戦国時代の猛者でしたが、無為に人の命を奪うことはしませんでした。
村重は、有岡城に残った妻、家族、家臣の多くが信長によって処刑されても、尼崎城に移って戦いを続けました。しかし最終的には謀反敵わず毛利の元に逃れます。
無為に人の命を奪わなかった村重の姿勢は、秀吉が天下をとると実を結びだします。村重は秀吉の元で茶人として呼ばれ毛利との調整役として活躍します。他に、村重一族や家臣及びその子孫は黒田家や細川家に家臣として迎えられ、荒木一族は後世に残っていきます。




