「荒木村重の足跡を辿る」(No.14)(荒木S) 堀(中島)城 | 荒木村重研究会

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織田信長包囲網に所属していた大坂本願寺は、天正ニ(1574)年四月、摂津国(※1)欠郡の中島(現在の大阪市淀川区)方面で反信長の兵を動かしました(『永禄以来年代記』)。この本願寺勢の中に、(本願寺との関係が深い)三宅氏(※2)、(荒木村重が追放した)池田勝正がいました。

同年、七月二十日、信長方の荒木村重勢約3千人は、高山右近勢と共に堀(中島)城を攻め、本願寺勢と戦いました。
この戦いで荒木村重・高山右近の軍勢のうち、7〜8百人が討ち死にしたと言われています。


阪急十三(じゅうそう)駅近くの武田薬品工場正門脇には、堀(中島)城についての説明板があります。
堀(中島)城は、十三の渡しの北岸の要地にあり、将軍足利義昭が入城していたことがある旨や。十三公園の巨木が、堀(中島)城周辺の樹木の名残と伝わっている旨などが書かれています。
堀(中島)城は場所が特定されておらず、十三本町一帯(十三公園あたり)と考えられています。



[注釈]
※1:現在の大阪府北部・兵庫県南東部
※2:摂津の国人。居城(三宅城)は、現在の大阪府茨木市に存在しました。



[参考図書等]

シリーズ実像に迫る010「荒木村重」
(天野忠幸著、戎光祥出版)

戦国摂津の下剋上
(中西裕樹著、戎光祥出版)

宝塚市ホームページ
たからづかデジタルミュージアム
「荒木村重異例の出世」

ウィキペディア
Weblio辞書
城びと
Googleマップ



[アクセス]

阪急電鉄(神戸線・宝塚線・京都線) 
十三駅西口から

武田薬品工場正門脇の堀(中島)城説明板
  線路沿いを北へ
  約400メートル(徒歩約6分)

十三公園
  南西へ
  約約550メートル(徒歩約7分)

十三に出向くのでしたら、喜八洲のみたらし団子をお土産におすすめします。阪急電車の駅構内でも売ってますよ。

[写真上]武田薬品工場(十三)正門

[写真中]堀(中島)城説明板


[写真下]十三公園内


(ご参考 説明板より)

堀城跡伝承地(淀川区十三本町付近)


西国街道筋にあたる十三渡 (じゅうそうのわたし) 北岸の要 地にあった城で、「西成郡史』(1915年刊)では永禄9 (1566) 年に細川藤賢(ふじかた)が築城したとされる。しかし一説に は、享禄4 (1531) 年の「大物(だいもつ) 崩れ」合戦の時にはすでに存在していた堀城にあてる見解もある。

江口の戦い(天文18 (1549)年)の時には細川晴賢(はる かた)が居城とし、その後、勝者の三好長慶の直轄下に置かれ た。長慶の没後には細川藤賢(ふじかた)が在城したが、永禄 9年に三好三人衆によって無血退城させられた。元禄元 (1570) 年の織田信長による野田・福島攻めに際しては、将 軍・足利義昭が入城したという。

廃城後も周辺の樹木は残り「堀の森」と呼ばれた。現在地南 西方向にある十三公園の巨木はその名残と伝えられている。