8月13日 伊丹市アイホールで開催された「こども能発表会」は満席、盛況のうちに閉幕。こども達の頑張りに感動しました。そのあとはプロの能楽師による能の上演、新作「村重能」が発表されるなど熱い舞台となりました。
始まりの挨拶で紹介しました、村重の一子孫の
移動について、配布資料をアップしましたので、ご覧ください。また、ご質問や情報提供がありましたらご遠慮なくご連絡ください。
有岡城の戦いは、荒木摂津守村重が織田信長に謀反し、1578年(天正6)7月から1579年(天正7)10月まで籠城して戦い、その後、村重は戦線を立て直すため有岡城を出て尼崎城と花隈城にて約8ヶ月間、戦いを続けたが、1580年(天正8)年7月初に開城。
(資料解説)
信長に反発して有岡城にて奮戦していた荒木村重氏だが、まだ幼かった息子「孫四郎(そんしろう)」と一族三男「源之允」を縁のあった熊本県樺(荒尾市)の豪族小代氏に(船と街道を使って送り届け)預けた(目的は子供達の安全とその子らによる荒木家の再起を願っていた)。
右上の書状はその時の村重から小代氏への依頼文、概要は「織田の大軍に比べこちらは兵約一万人、九滅一生の状況のなか武道の意地で戦っているが、まだ幼い息子達は御地へ送りますので何卒よろしくお願いします。」という内容。
村重氏の依頼を受けた小代氏は、まだ幼い孫四郎らを無事に育て立派な人物に成人させました(孫四郎村政と名乗る)。その後、小代一族が衰退すると、荒木一族はこの地域で繁栄し、村を治めていた(荒尾12代の荒木直は村長だった)、そして昭和の大戦後の農地改革までは広大な農地や山々を有していた。
荒尾の荒木一族は、村重の「家名を再び引き起こす」という願い、そして小代氏の恩を大切にしながら、荒木摂津守村重を先祖として今日まで代々祀っている。
現在大阪在住の村重子孫 荒尾14代(85歳女性)から聞いた話であるが、「荒尾の実家で先祖が話題になると孫四郎の由来が度々出ていた」とのことである。
なお、この資料は孫四郎村正の長男家系の荒木登志夫氏に代々伝承されたもの。同氏は村重に関する資料の他、荒尾で繁栄していた頃の資料など多数所有しているが、現在は高齢となり保管困難になったことから、熊本県立図書館に寄贈している。2023.2