「郡山(白井河原の)合戦場跡」を訪問
村重の仕えていた池田家では、桂川の戦い後、家中が分裂し、元亀元(1570)年6月19日、一族・重臣達「池田二十一人衆」(三好三人衆方)が、当主勝正(足利義昭・織田信長方)を追放し、勝正の弟である知正を当主にしました。(原因については、諸説有。)
元亀ニ(1571)年8月28日、三好三人衆・本願寺方の池田知正と、足利義昭・織田信長方の和田惟政が、郡山(大坂府茨木市)で衝突しました。池田氏の領地との境に惟政が新しい城を築いたことが、直接の原因と言われています。村重は怒り、池田勢は、高山飛騨守・右近の守る新しい城を攻撃し、救援に駆け付けた惟政や茨木兄弟を討ち取りました。この戦いで、村重や中川清秀が活躍し、武功をあげました。
郡山合戦で父惟政の軍勢が壊滅し、息子惟長は、残った少数の兵を連れて高槻城へと引き返しました。高槻城は池田勢に囲まれましたが、郡山合戦で生き残った高山飛騨守・右近の親子と共に、惟長が高槻城を死守していました。そして、三淵藤英、明智光秀、細川藤孝、佐久間信盛らが高槻の惟長を支援し、知正は囲みを解いて退去しました。
[参考図書]
「シリーズ【実像に迫る】10『荒木村重』」(天野忠幸著、戎光祥出版)
「戦国摂津の下克上」(中西裕樹著、戎光祥出版)
「荒木村重研究序説」(瓦田昇著、海鳥社)
「荒木村重史料研究」(山脇一利著、ブイツーソリューション)
[郡山(白井河原)合戦場跡へのアクセス]
JR茨木駅から阪急バス
中河原南口バス停から東方面へ徒歩約5分。
耳原(みのはら)公園の手前の幣久良橋(てくらばし)とその東側の横断歩道を渡り終えた所の裏側に合戦場跡の説明板有。

