伊丹市にある有岡城の本丸跡には、荒木村重と妻だしの歌碑が立つ。
有岡城落城後に捕虜となった妻だしは、天正7年(1579年)12月、京都鴨川の河原で打ち首に臨んでいた。
石碑に刻まれているのは、その時の辞世の句である。句は次の通り。
だし 辞世の句 村重へ
「霜がれに 残りて我は 八重むぐら 難波の浦の 底のみくずに」
<現代語訳>
私は、霜にあたり枯れた八重葎(やえむぐら)のようです。あとは大阪の港に沈み、海の藻屑となるだけでしょう。
何とも物哀しい歌です。
備考 八重葎(やえむぐら)
「八重葎」は、家などが荒れ果てた姿を表すときに使われる言葉
信長公記には「たし、歌よみて荒木かたへつかはし候。」とある。
これを受けて村重の返歌は次のとおり。
村重から だしへ
「思ひきや あまのかけ橋 ふみならし 難波の花も 夢ならんとは」
村重は武芸のみならず、茶道や能にも長けた文武を兼ね備えた人物であった。返歌には深い想いが込められていると思います。
歌の語訳は人物の背景を思い描きながら訳していきますが、村重謀反の理由や状況が近年明らかになるにつれ数十年前の返歌の訳をみると、どうも腑に落ちないものになってしまいます。
数十年前は、村重謀反について、「家臣、妻子をすべて置き去り自分だけ有岡城を脱出した」と言われていましたが、近年の史実等に基づく研究によると、村重は有岡城を出て息子の村次が戦っている尼崎城に移動し戦線を立て直そうとしていた事がわかっています。
だしが辞世の句を読んだ12月、村重は尼崎城で戦いの真っ最中でした。
これら状況を踏まえて現代語訳すると。
<現代語訳>
「天のかけ橋をふみならして、ともに渡ろうとしたのに、それが夢に終わるのか。」
二人揃って共に目標を達成しようとする想いを叶えられない悔しい気持ちが伝わります。
返歌の「あまのかけ橋」について、あまは「天」のことで、当時「天」の持つ意味は中国にならい「天上の最高神」や「道徳の根源」と解されていました。村重は顕如(※)の人柄にふれ、後者の人の生命を大事にする理想社会の実現を夢みたからこそ、天下取りのために虐殺を日常繰り返す信長に謀反をおこしたのではと思います。
備考 ※ 戦国乱世の時代、浄土真宗は民衆のこころのささえとなっていて、世の中の不条理・不平等の排除にむけ積極的な民衆運動を展開していました。大坂石山本願寺は蓮如ー実如が二代で築き、顕如が承継して宗派の最盛期を築き上げていました。
参考 荒木村重研究会会長
森本セミナー ふるさと戦国史14
NHK 大河ドラマ 官兵衛ポスターより