足利義昭の移動 | 荒木村重研究会

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荒木村重研究会は「荒木村重研究序説」(瓦田昇著)の
発行をきっかけに翌年1999年に伊丹で誕生しました。
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第15代将軍 足利義昭の運命的な移動を考察します。


 12代将軍 善晴の次男 仏門に入る覚慶と名乗る


 1565年 松永久秀らに兄 将軍義輝を殺害され、義昭も興福寺に幽閉されるが、細川藤孝らの手引きで、近江 和田惟政の下に逃れる


  ⑤さらに若狭 武田氏(足利将軍家の信任が厚い)、越前 浅倉氏義景、美濃 織田信長を頼る


※ この頃、明智光秀は朝倉家に仕えていた

※ 細川藤高は義昭の側近だった

※ 光秀は藤高を通じて義昭を信長に紹介した(と言われている)


※10代将軍の頃より足利家は分裂により、幕府は不安定な状態が続き、中央政権は三好氏が牛耳っていた。

 信長陣営は三好政権を相手に、義昭を擁立した戦いを繰り広げ勝利する。


 1568年 尾張美濃の 織田信長に担がれ上洛し、15代 将軍となる


⑦⑧⑨⑩  1573年 信長の傀儡となっている状況に反発し、信長との不仲になる。

御内書を濫発し反信長の挙兵(武田信玄・浅井長政・朝倉義景ら)を再三したが敗れ、室町幕府は崩壊した。


同年、信長に京都を追われ、転々とした後に海路、毛利氏に身を寄せつつ、上洛への決起を図り続ける()

 1578年 義昭、毛利輝元、本願寺顕如らが織田方の摂津守 荒木村重と結びつき、村重は謀反を起こした。


豊臣秀吉による天下統一(1582)後は、山城槇島城に一万石を得た。