第15代将軍 足利義昭の運命的な移動を考察します。
① 12代将軍 善晴の次男 仏門に入る覚慶と名乗る
② 1565年 松永久秀らに兄 将軍義輝を殺害され、義昭も興福寺に幽閉されるが、細川藤孝らの手引きで、近江 和田惟政の下に逃れる
③ ④ ⑤さらに若狭 武田氏(足利将軍家の信任が厚い)、越前 浅倉氏義景、美濃 織田信長を頼る
※ この頃、明智光秀は朝倉家に仕えていた
※ 細川藤高は義昭の側近だった
※ 光秀は藤高を通じて義昭を信長に紹介した(と言われている)
※10代将軍の頃より足利家は分裂により、幕府は不安定な状態が続き、中央政権は三好氏が牛耳っていた。
※ 信長陣営は三好政権を相手に、義昭を擁立した戦いを繰り広げ勝利する。
⑥ 1568年 尾張美濃の 織田信長に担がれ上洛し、15代 将軍となる
⑦⑧⑨⑩ 1573年 信長の傀儡となっている状況に反発し、信長との不仲になる。
御内書を濫発し反信長の挙兵(武田信玄・浅井長政・朝倉義景ら)を再三したが敗れ、室町幕府は崩壊した。
同年、信長に京都を追われ、転々とした後に海路、毛利氏に身を寄せつつ、上洛への決起を図り続ける(※)。
※ 1578年 義昭、毛利輝元、本願寺顕如らが織田方の摂津守 荒木村重と結びつき、村重は謀反を起こした。
豊臣秀吉による天下統一(1582年)後は、山城槇島城に一万石を得た。