信長公記によると、 ―荒木摂津守五六人召列、伊丹を忍出、尼崎へ移候… についての解釈 | 荒木村重研究会

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信長公記によると、


荒木摂津守五六人召列、伊丹を忍出、尼崎へ移候(『信長公記』より)



(村重は5~6人の従者のみ引き連れ、密かに伊丹(有岡城)を抜け出して尼崎城へ移動した)

とあるのは周知のことですが、


これに対して

歴史学者の天野忠幸氏は「村重は、実は数百の勢を率いて有岡城包囲網を突破し、尼崎城へ移動」と発表しています。


荒木村重の戦いと尼崎城 


http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/publishing/bulletin/contents/pdf/00114121.pdf


要旨は補給ルートの尼崎城が危機となり、落城すると有岡城は共倒れの危機に陥ります。

村重は、これを立て直すため直属の数百人を率いて自ら入城したとのことですが、その元になった書状は以下のとおりです。


就其此方人数漸御前衆かけて六七百計立候事、無人と察候条、早々御人数被差返候て(『乃美文書』より)

 

ところがこの書状の解釈が分かれるところです。

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において、砂川博氏が「荒木村重の尼崎城「移」動ー検証『信長公記』(2021/2/21)の論文にて、

『信長公記』冒頭、天正7年(1579)9月2日、荒木村重が5,6人の供を連れて有岡城を脱出、尼崎城へ移ったという記載の真偽について検証し、天野氏の「数百人」説に異を唱えています。


当時の諸状況、資料解釈から導き出されていますので、大変興味深い内容となっています。


村重研究会では、天野先生が今後どのようにお応えになっていくか注目したいことや研究会内でも議論を交換して推理を働かせるのは楽しいなどの意見が出ました。


なお、尼崎城は石山本願寺が降参(天正83月)してもなお抵抗を続け、天正8年(15807月、花隈城とともに開城しています。