さてさて、ようやく本稿の主要関心事にたどり着いた。ここからは掛け蓬莱について。まづは『年中行事辞典』を見てみよう。

 

【蓬莱】

「東海中にあって神仙が住むという蓬莱山の形を、台の上に作った飾り物。平安時代には貴族の祝儀や酒宴の装飾用として用いられたが、室町ごろから正月の祝儀用として飾り、また取肴として賀客に出すようになった。これは上方また近畿の風俗であって、江戸では蓬莱の代わりに喰積が用いられた。・・・

蓬莱は小笠原流婚礼に用いる奈良蓬莱という物から発展したとの説があるように、床飾りと取肴の台を兼ねる点で、この両者は相似たものである。蓬莱の飾りは、普通には、三宝の上に白紙・歯朶・譲葉・昆布を敷き、米・榧・搗栗・穂俵・串柿・橙・柚子・蜜柑・野老・海老・梅干しなどを積む。鏡餅を飾るのに用いる食品と共通する物が多い。縁起物尽くしで・・・。

蓬莱の様式には種々のものがある。懸け蓬莱は床の間の壁などにつり下げるもの。組み蓬莱は堂上家で酒宴の際に用いられた三峰膳から新年の蓬莱飾りへ発達したもので、右に方丈、左に瀛州(えいしゅう)のさまを羹(あつもの)でこしらえたもの(方丈・瀛州は蓬莱とともに中国古伝説にある三つの神仙島で、・・・)。包み蓬莱は蓬莱の節物を紙で包み、水引をかけたもので、俗にお福包みという。・・・こうしたものを、近畿では蓬莱山と呼んでいるが、蓬莱様(さん)のつもりで使われているのかもしれない。」

 

 

続いて、お約束の手順に従い(?)国会図書館デジタルコレクションから。

 

・大江濤畝 編『新歳時記』,宝文館,明36.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/767907

 

同書は季語を動植物・人事・衣食などに分類した一覧表であるが、器財の部に<蓬莱>に加え<掛蓬莱(包蓬莱←引用者註:小文字表記)>が挙げられている。

 

 

・現代俳句研究会 編『新纂俳句大全』春之部,資文堂,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1241787

 

ここには「掛蓬莱の尾のしだり尾を捌きけり」の一句が選ばれている。

 

 

・『雑俳誌』自31 号至34 号,雑俳江東連,昭和5-8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1128772

 

4コマ目・昭和7年3月刊誌に「のんびりと掛け蓬莱に朝の蜘蛛」なる一句を載せる。

 

 

・山本三生 編『俳諧歳時記』新年,改造社,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1213577

 

【蓬莱】の項にて

「・・・懸蓬莱は蓬莱の節物を集めて掛け下ぐるもの、組蓬莱は昔堂上家の宴に三峰膳とて、中に蓬莱、右に方丈、左に瀛州を羹にて作りかたどりしもの。包蓬莱は、蓬莱の節物を紙で包み、水引にて結びたるもの、俗に福包とも云ふ。」との説明がなされた上で、季語<掛蓬莱>を詠み込んだ句は「しだり尾を畳にひくや掛蓬莱」など計4点が挙げられている。

 

 

・井岡大輔 著『一簣 : 咀芳随録』,井岡大輔,1939. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1454521

 

【掛蓬莱、包蓬莱】の項に

「蓬莱飾に用ふる節物を集めて、床柱などに掛け下ぐるものを「掛蓬莱」といひ、蓬莱の節物を紙に包み、水引にて結びたるものを「包蓬莱」、又は俗に「福包」と称する。」とある。

<掛蓬莱>を含む掲載句は「しだり尾の早からび居り掛蓬莱」。

 

 

以上5点の資料に記されている<掛/懸蓬莱>の説明文中に日蔭蔓の文字は見られぬが、少なくとも「しだり尾」と組み合わせて詠まれている3点の句が伝える景色は、カズラの存在を謳っていると断じてよかろう。

一方、次なる4点の資料に載る<掛/懸蓬莱>は、明らかに日蔭蔓を伴っていたことを告げている。

 

・『流行』(25),流行社,1901-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1496187

 

【懸け蓬莱】の項に

「新年床飾りの懸蓬莱は、維新前は古式を尊ぶ家にては随分用ゐたるも、維新後頓と(とんと)廃りたるに、・・・今行はるゝ懸蓬莱の造り方は、今年藁に稲穂を添へて、根本を括りたる上に、白紙にて折りたる鶴亀を附け、其折亀の中に造り物の松竹梅を挿(はさ)み、紅白の水引飾となしたるなり。

是は何頃より初めたるものか。元来上代式にては、元旦に用ふる三種飾なるものと、正月七日に用ふる卯杖というものありて、三種飾りは同じく穂付きの懸藁の根本を紅白重ねの紙にて、茶壺の口を包む如くして、水引にて膝折りに結び(引用者註:両輪結びのことか?)、其下へ曲玉を数々糸に貫ぬきて下げ、其下には神鏡を下げ、鏡の後より紅絹を膝折りに結びて程よく下げ、別に宝剣を紅絹両口の袋に入れて袋の両端を垂れ、これを神鏡と曲玉の間に当る所の背部へ横に、紅絹の弶[弓偏+京:わな、罠]紐にて下ぐるなり。又卯杖は同じく穂付きの懸藁に蔭蘿(引用者註:原文ママ、2文字にかけて“ひかげかづら”とルビあり)と、藪柑子を添へ、柳にて削りたる杖と共に根元を括りて、式(かた)の如く紅白の紙にて包み、金銀水引にて膝折に結び何れも床の間の掛物釘へ懸るなり。此卯杖、三種飾りの有職を根元として、中興懸蓬莱と號(なづ)けて一種の物を造り創めしならん。・・・」とあり。

 

当該記事に添えられている絵図(※25号‐17頁(20コマ目)、要利用登録)は日蔭蔓を伴うものではないので、引用前段にある「今行はるゝ懸蓬莱」の姿であるようだ(ここに用いられている折形が鶴亀に見えるか否か、意見は分かれようけれど・・・)。日蔭蔓を採り入れた「中興懸蓬莱」が描かれていないのはすこぶる残念であるが、今日多く見られる形状の掛け蓬莱誕生の、そのごく初期の証言のひとつと言うことができるのではなかろうかと思う。1901年(明治34年)12月号。

 

無論、『流行』誌の性格を見極めねばならぬ上、たった一つの雑誌記事に基づいて何ごとかを断定的に申し述べることなどは出来ぬワケで、例えば先にも見た『東京年中行事』は後年、1911年の刊であるけれど、【蓬莱】の項に<掛/懸蓬莱>の語は記されていない。同項の記述は「蓬莱は又の名を喰積と云ひ、供饗(くぎょう)と云って、形は三方に似て四方に穴のある台の四方に白紙を敷き四隅へは裏白譲葉を出して此上に白米を盛り、中央の橙には水引で結へた松の小枝を立てて、其側に伊勢海老を立てかけて置き、・・・客にすすめて新年を祝ふ心を表はすので有る。素(もと)より食へば食はれるもので有ることから喰積と云ふので有らうが、多くは之に手をつけるものなく、只相対して礼をするのみで有る。・・・」と述べた後、「俳諧歳時記栞草には『今俗誤りて蓬莱台を喰積といへる故に、俳諧者流も同物と心得たるもの多し。むかし食積と唱へしは今の重詰の類にて賀客饗応の具なれば・・・』とある。昔は実際さうで有ったかも知れぬ。」と続く(因みに、ここで言う『俳諧歳時記栞草』が馬琴編のそれであるなら、引用されし一文は当方手許の岩波文庫版には認められない)。

 

<< 図5 >>『東京年中行事』(既出・国会図書館デジタルコレクション)より

 

 

・『大日本山林会報』(406),大日本山林会事務所,1916-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2370267

 

所収の論考【ヒカゲノカヅラに就て】に「今出雲の大社博物館に掛蓬莱と称するものを陳列しあり。就て視るに日蔭蔓にして長く下垂し、賀茂の神山より採集したるものなりと云ふ。」とある。

 

 

・平岡耕 著『簡明を主とした礼法の栞』,平岡耕,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1450162

 

【附録:正月の床飾りに就て】に以下の一節。

「掛け蓬莱は紙で蓬莱を折つて真中に稲穂を垂し蓬莱の後に日蔭の葛を釣して逆に掛けます。それで蓬莱とは申迄もなく神仙道を得た、不老不死の人のみが居て・・・掛蓬莱の蓬莱は之れから引用されたものである事は勿論首肯(うなづき)得る事でありまして、葛も稲も全部が逆に掛られているのは一には上帝の恵を垂れ給ふ事を表し又一には重い方が下になると云ふ、物事の理に従つてなされたことだろうと思はれるのであります。・・・」。

 

(直接の関わりは無いが、中国料理店にて、しばしば「福」の文字をしたためた色紙などが逆さまに吊されているさまを目にすることがあろう。これも福は天からもたらされることを寿いでの次第と承る。)

 

 

・岡不崩 著『万葉集草木考』第1巻,建設社,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1214256(引用者註:書誌情報の出版年月欄は昭和7年9月となっているが、奥付には昭和7年3月20日発行との貼紙がある。)

 

【第三編 日蔭蔓考】に

「今も掛け蓬莱とて、ヒカゲノカツラ四五尺なるもの、薬玉に似たる物作り、京都より昔のちなみにより、旧将軍家へ、年々納めたる物を、仕用後予はいつも拝領して一ヶ月あまりもながめしことあり。」との割り書き(割注)がなされている。

 

 

この他の主要文献については以下の如し。

 

『古事類苑』(記紀以降江戸末までの諸文献から主立った参照箇所を抽出し、項目別に分類整理したもの)【蓬莱】項に引用されている記事に<掛/懸蓬莱>の文字は見当たらぬようだが、以下、引用されている書名とその刊行・成立年などを簡単に記すと共に、<蓬莱>、<喰積>の語すら書き留められていないものについては、その旨を付記しておく。

 

 

《故實拾要》篠崎東海(1686-1739/40?)による故実の解説書。成立年不詳。

「堂上諸家中、正月三方の飾には、熨計(引用者註:熨斗)蚫、昆布、此の二種を切て硯蓋と云う物に盛る。白箸一膳を添て三方に之を載せる也。年始客對の時、件の三方を主人の前に備ふ。・・・硯蓋とは硯筥の打かぶせの如き蓋なる物也。・・・凡家には喰積の台とて、種々の物を盛り飾る也。此の如き物、堂上には聊も之れ無き事也。・・・」とあり、ここに<蓬莱>の文字は見えない。

 

《増山の井(ぞうやまのい)》1663年刊、北村季吟による季語の解説書。

 

《秇苑日渉(げいえんにっしょう)》1807年刊、村瀬栲亭(1744-1818/1819?)

による随筆(?)。諸事についての考証が漢文で記されている。

 

《日次紀事(ひなみきじ)》黒川道祐(1623-1691)による年中行事解説書。成立年不詳(写本の序に「貞享二年乙丑夏五隺(引用者註:←この左1文字、[鶴]の左側のみ)山野節識」とある)。

 

《改正月令博物筌》文化年間刊、鳥飼洞斎(1721-1793)による季語の解説書。

「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」で見ることができるが

(https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a0774/bunko31_a0774_0001/bunko31_a0774_0001.pdf、<蓬莱>は30コマ目)、単なる季寄せの範囲を超える内容であるようだ。

 

《華實年浪草》天明年間刊、三余斎麁文による季語の解説書。

 

《日本歳時記》貞享5年刊、貝原好古の編録に叔父・貝原益軒が手を加えた歳時記。

 

《水戸歳時記》詳細不明、立原翠軒の著か?

 

《月令廣義》中国・明代の歳時記のようであるが、詳細不明。

 

《年中行事故實考》1742年成立、松平士竜による年中行事の解説書。

 

《煕朝樂事》詳細不明。中国・明時代(について)の書か?

 

《翁草》1791年刊、神沢杜口(1710-1795)による随筆。

 

《守貞漫稿(近世風俗誌)》喜田川守貞(1810-?)著、江戸後期における都市風俗の記録。【蓬莱】の項に

「古は正月のみの用に非ず。式正の具と云ふにも非ず。貴人の宴には唯だ臨時風流に之を製す。今も貴人の家には蓬莱の島台と云ふ。島台と云ふは洲濱形の台を云ふ也。・・・今俗は島台と蓬莱は二物とし、島台は婚席の飾とし、蓬莱は正月の具とし、其の製も別也。・・・今世は三都とも蓬莱同制なれども、京坂にては蓬莱と云ふ。或は俗に宝来の字を用ふるもあり。江戸にては蓬莱と云はず、喰積と云ふ。クヒツミと訓ず。・・・」

 

《内院年中行事》詳細不明。内院とは伊勢神宮(若しくは賀茂神社?)における斎王/斎院の常の御座所。「正月二日、夜に入り御取初の御盃事あり。・・・献上の調よう、白きはなびら(餅也)、福壽草、橘、榧などのやうなもの也。・・・此の時、昆布、鮑の御盃、御流を給ふなり。」の一節が採られているが、ここに<蓬莱>の語は用いられていない。なお、『広辞苑』に「取初(とりぞめ):朝廷および武家の年中行事の一。正月二日に、昆布・鮑・勝栗などを三方にのせて出し、盃事をした。」とある。

 

《後水尾院当時年中行事》後水尾天皇(1596-1680)による年中行事に関する記録。ここでも正月二日の条が引用されているが、やはり<蓬莱>の文字は見当たらない。

 

《嘉永年中行事》詳細不明。国会図書館デジタルコレクションにて『嘉永年中行事考証』なる書が公開されており、その【緒言】(明治21年と記されている)に「嘉永年間を以て起草し、彼の禁裏年中行事を基礎となし、或は古老に問ひ、或は記録に攷へ(引用者註:“考え”と読むのだと思う)、古今の沿革を校正し、以て一小冊を作れり。今之を嘉永年中行事と称す。」と記されている。書名は『考証』なれど、原文に句読点を朱書きで添えた程度のものか? 

上2点に同じく正月二日の記事「・・・先づとりそめの御盃供ず。其のやう、先づ御盃、次に三方ひとつに菱花びら、昆布、柏、かち栗、櫛柿、数の子、あめ、こせう等の、様々の物をとり入て・・・」が引かれている。<蓬莱>見当たらず。

 

《年中恆例記》冒頭に“広橋大納言兼秀卿記”とある。広橋兼秀(1506-1567)は戦国期の公家であるが、『続群書類従』にては<巻六百六十>として「第貳拾參輯下・武家部」に収められている(『総目録・書名索引・略解題』の巻を当たってみたが、書誌情報は得られなかった)。なお、ここでも引かれているのは正月二日条で「御取初在之、四方串柿、昆布、勝栗、餅、あめ、たはらこ、□□□□參を向はれ候也、御美女調進之」と見える。広橋家では三方ではなく、四方に脚の刳り(装飾を兼ねた手掛けの穴)が施されている台に載せて供されたようだ。<蓬莱>の語が記されておらぬことはさておき・・・、 なぬ? 御美女、これを調進す、って! 誰や、こんなん、書いたんは (^_-)

 

(↑ ここまで『古事類苑』掲載分)

 

 

さらに、江戸期の都市風俗を語るに不可欠の資料とされている『嬉遊笑覧』(1830年成立)にても、岩波文庫の索引で見る限り<蓬莱>の語は【算木餅】の項に「今正月の蓬莱の果子ども食ふ者なきやうになりしは、算木餅もおなじかるべし(蓬莱の果子など、今は食ふ者なきは侈り(おごり)たる也。是故に早春の果子に沙糖を煉て、ごまめ・かち栗・昆布・榧・ところ・柿・数の子迄、其形色を模したるなど有。)」とあるのみで、<掛/懸蓬莱>への言及はなされていない模様(上掲引用文も岩波文庫による)。

また、『古今要覧稿』にては、原書房による復刻版の索引に<蓬莱>、<喰積>の語すら存在しない(編者・屋代弘賢の死により、事業が完遂されなかったことに因るのかもしれぬが)。

季寄せの類では、当方手許の『増補 俳諧歳時記栞草』(1851年刊:曲亭(滝沢)馬琴編、岩波文庫)に【蓬莱飾】の項はあるものの、<掛/懸蓬莱>の語は記されていない。

既に見た通り『古事類苑』が参照する『守貞謾稿(近世風俗志)』にも<掛/懸蓬莱>の語は見当たらぬようだが、同書には「蓬莱図」が描かれている。この画はしばしば引用されているようなので今さらながらではあるが、喜田川季荘 編『守貞謾稿』巻26,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2592412 より。

 

<< 図6 >>

 

以上を総括するに、次のごとく述べることが許されようか。

先に見た通り、『日本年中行事辞典』に<蓬莱/喰積>は「室町ごろから正月の祝儀用として飾り、また取肴として賀客に出すようになった」とあるが、市井広く普及するに至るのは、庶民の暮らし向きにわづかながらも余裕の出始めた江戸中期以降のことではあるまいか(無論、公家また武家の社会では、同書が説く通り室町頃から行われていたであろうし、その際、婚礼など祝儀の折りの床飾りのさま(<奈良蓬莱>、<蓬莱台>)や<手掛け熨斗>などが参照されたであろうことに異を唱えるものではない)。

 

<< 図7 >>『類聚婚礼式』より<奈良蓬莱の図>:亀が松竹梅を背負う

 

そして、<掛/懸蓬莱>が登場するのは江戸後期に入ってからのこと。当初は食品を主要構成物とし(日蔭蔓などを用いず)、そこにせいぜい松竹梅を添える程度のものであったろうが、如何せん、蓬莱/喰い積みを吊し飾りに仕立てるのは決して容易な作業ではあるまい。そこで、実物を組み、吊り下げる形状の飾りはあまり普及することなきままながら、その姿を好もしく思うごく限られた人々の目を慰撫すべく、掛け軸に描いて愛でることも行われたようだ(後掲図参照)。

その一方で、このくにには古来、新春を彩るしつらえの具のひとつに卯杖・卯槌があった。卯杖・卯槌は除厄、蓬莱は招福と、元来、その性格を異にするものであることは疑いを容れぬであろう上、厄を払う前者は元旦から飾り付けるものでもなかったハズであるが、明治末~大正にかけての頃合いであろうか、カヅラ垂らして既に何のこっちゃらよー判らんようになっておった卯杖・卯槌と、見目麗しかれど拵えるんが厄介でかなわなんだ掛/懸蓬莱とは、手を相携えて偕老同穴一緒くた、今日見るような姿のものに変貌を遂げて広まるに至った。と、概ね、かような仮説を立てることができるのかと思う(ここまで見てきた限りにおいては、<掛/懸蓬莱>なる語が最初に書き留められたのは明治34年12月発行の『流行』誌。明治36年刊の大江濤畝編『新歳時記』がそれに続き、昭和に入れば季寄せの類をはじめ、さまざまな記録にも見られるようになる)。本稿冒頭に記した「掛け蓬莱は蓬莱山登山中の龍」というのは卯杖・卯槌と混同(混淆と云うべきか)したるがための言説に相違あるまいが(ついでながらに申さば、時折目にするであろう五色の緒や麻苧を下げたる掛け蓬莱も、卯槌の装飾に由来するのだと思う)、さりとて、謬見と断じてしまうのはチト気の毒でもあろうかと・・・(^_-)

 

 

さて、ここまで縷々ご託を並べて参ったが、最後に告白しておかねばなるまい。

今日、世間に行き交う掛け蓬莱の大半は日蔭蔓を纏っている、と言うより、日蔭蔓こそがその主要構成品目であるようにさえ目に映る。正直申して当方長らく、掛け蓬莱にヒカゲが用いられるようになったのは、ごくごく単純に、新年を迎えるに当たり長命を寿いでの次第と思っていたのであるが、さにあらざることが闡明された。無論、喰えもせんのに蓬莱を名乗り、何喰わぬ顔で主役然たる日蔭の存在(!?)に幾許かの疑念がなかったワケでも無いのだが、此度のお題投げかけなくんば、このように調べてみることも無かったであろう。無い無い尽くしの涯ながら、某御仁には深謝申し上げる次第である。

 

(すでに述べた通り、卯杖と卯槌、いづれが先にヒカゲを身に纏い始めたかを判ずるのは困難な模様であるが、『古事類苑』に見える源俊頼(1055-1129)の歌集《散木弃謌集(奇歌集)》からの引用歌「老らくの腰ふたへなる身なれども卯杖をつきて若菜をぞ摘む」には「七日、卯杖にあたりける日、常陸守経兼が許より若菜に添へて贈りける歌」との詞書きがある。暦については不案内ながら、初卯と7日の若菜摘みとはその日が近接し、同日に重なることもあったろう。所詮、愚蒙の戯れ言に過ぎぬけれど、この歌の行き交うその場に身を遷し、杖に伴う七草の緑がカヅラを招き寄せる景色を想ってみるのも一興かと思わぬでない。槌なれば、もとより三~五寸ばかりの小さな木片。そこに組み糸/緒を長く垂らすは装飾として似つかわしくあれども、幅広く嵩高いヒカゲとなれば、“添える”に留まらず“覆い隠してしまう”こととなりかねぬ。一方、杖にカヅラとあらば、老人→長寿との連想もはたらき、緑のもたらす弥栄が一層映えることだろう。倶利伽羅龍? 拙者、附会ト付キ合ハヌヲ宗ト致セリ ゴメンアソーセ~~~~ m(_ _)m 

 

ところで、日蔭蔓を伴わない掛け蓬莱とは一体どのようなシロモノだったのであろう。管見の限り、それを伝える資料は極めてとぼしく、掛け軸に描かれた画の二つ三つに過ぎぬ。下掲、鈴木其一の手になる『懸蓬莱図』は、その代表的なもの・・・でありながら、あまり広く知られてはおらぬようにも承る。長々と引用を連ねてきた愚稿であるが、実は、本図をより多くのお方様にご覧いただきたいというところにその趣旨があったのよン(^^) それを稿末に置いたのは、無論、意図あっての次第(^o^) 30秒で教養を獲ようとする御仁の欲呆けマナコにゃぁ、唯一無二の其一さまの画、あまりにもったいのーおすさかい \(^O^)/

 

<< 図8 >>https://paradjanov.biz/art/favorite_art/favorites_j/4569/ より

 

***

 

以下、附録。

ここまで見てきた幾つかの資料に、卯杖とゆかりある語として粥杖、祝棒、削り掛けといった言葉が挙げられていた。そこで思い出すのが次図(より**な画を目にした覚えがあるのだが、今のところ発掘に至らずじまい。あるいは愚生の妄想暴走したるかも・・・)。

 

<< 図9 >>『風俗画報』第四十九号誌(明治26年1月号)より【御本丸大奥年中行事正月七日御鏡餅引之図】

引用元の記事には「第一の御鏡餅の後と(あと)より春駒に見立てたる大摺子木に跨りたるハ・・・」とあり、件のナニは「春駒」であるらしい。暴れ馬は意の如くならぬものと承るが、春駒なる珍棒の果たして如意也哉不如意也哉・・・(^_^;)

ちなみに、『定本 江戸城大奥』(永島今四郎・太田贇雄 編、人物往来社)には次の如く見える。

 

【大奥の内幕 御鏡餅曳き】

「正月七日は人日にて此の日大奥に御鏡餅曳きの儀式あり・・・鏡の台は白木造りの三方にて、広さ一間四方高さ四尺もあるべし。・・・餅台には直径五尺ばかりなる鏡餅を載せ、その周辺には譲葉、橙を種々に飾り、平昆布、幣帛の類を長く切り下げ、榊の枝を台の四方に葺き下し或は注連を引き廻はすなど、総ての飾り付け神田祭に氏子の町々より曳出す山車を見たらんやうにし、・・・

頭には扇子の台に蝦子(えび)を結びて翳し、或は鯛形の赤烏帽子、味噌漉笊、熨斗、杓子などを戴き天狗、ヒヨツトコなどの仮面を額に横鬢に被り摺木(すりこぎ)に注連飾りしたるを股に曳きなどしつつ、蹣跚(まんさん)の中に拍子合せて廊下狭しと踊り来り去る面白さ、喧雑なる一条道、承塵(なげし)の塵も踊つて流石に宏壮無比の大奥も震動せん計りなり。・・・

部屋方、タモン(引用者註:?)なんどは公けに見物するを許されねども、廊下の障子内より窺き(のぞき)見る習ひなれば暫くして障子には一つ穴明き二つ穴明き、扨ては内より外の見ゆるのみか外より内の見え透く迄になるも可笑し。・・・」とさ。善哉、善哉 (*^_^*)

 

 

昨年末、とあるお方様から掛け蓬莱と卯杖との関連/異同を問われた。当方、卯杖・卯槌に関わる風習とは無縁の暮らしを営んで参ったため、年中行事の解説書等で、これらと祝い棒、削り掛け(削り花)、あるいは粥杖、鷽替(うそかえ)神事などとの関連を説く記事を見かける以外にほとんど知るところがなかったのであるが、なるほど、インターネットの画像検索にて目にすることの出来る掛け蓬莱の多くは卯杖と判別しがたいものであった。

 

卯杖と卯槌の混淆(あるいは分化?)については夙に指摘されてきていたことであるようだが、掛け蓬莱にまでその累が及んでおろうとは(?)まことに迂闊ながら思いも寄らぬ次第であった。

かくして幾つかの資料を眺めているうち、近年ときおり耳にする「掛け蓬莱は蓬莱山に登る龍をかたどったものである」という珍妙な言説の拠って来たるところもほぼ見えてきたように思う。

 

さて、今し方「珍妙」と評したばかりではあるが、かくなる謳い文句を直ちに斬って捨ててしまう訳にはゆかぬところもある模様。

 

そこで、ここに当方の仮説・・・僻事(ひがごと)と申すべきであろうか・・・をチトばかり、・・・と思い立って稿を起こし始めたのであるが、如何せん、愚生、先賢の論を整理して提示する能を持たざることが直(じき)に明らかとなったがため、以下、諸資料からの引用を無秩序に並べ置く次第となろう。この際、一々の言及を控えるが、表記を改めた箇所があると共に、その表記方法は統一を欠き場当たり的なること、かつまた、必要以上に膨らんだ文字の嵩を前に水晶体の調整能力とドタマの忍耐力が追いつかず、愚稿全体が誤記・誤変換・論旨の乱れを多分に含むバチ当たりな迂闊の集大成たることを予めお断り申しておかねばなるまい。

 

 

まづは手許の『日本年中行事辞典』(鈴木棠三、角川小辞典)からその記述を引いてみよう。

 

【卯杖】

「新年に当たり、一年中の悪気を払うための呪具として、中古は初卯の日に宮中に奉り、また貴族や後宮女房などが贈答に用いた杖。・・・杖は・・・陽性の木を材料とし、削って白くした長さ五尺三寸ほどのもの。わが国でこれを用いた初めは持統天皇の三年(六八九)正月乙卯の日に大学寮から卯杖を献じたと『日本書紀』にあるもので、下って文徳天皇の仁寿二年(八五二)己卯の日に、精魅を逐うために諸衛府から剛卯杖を献じたことが見える。

剛卯杖というのは、漢の平帝を弑して国を奪った王莽が始めたものとされる。・・・しかし、史上でも逆臣として有名な王莽が創始した行事を、そのまま輸入したとは考えにくい点があり、おそらくわが国の固有習俗としての年木を、輸入風俗の剛杖で潤色したのが卯杖となったものではないかと想像される。

平安時代に用いられた卯杖は、贈答用としてかなり装飾的傾向の濃い物となっていたようである。通例、杖の上端を白紙などで包み、これに日蔭葛などの葉を添えて贈ったものであった[枕草子]。・・・

卯杖を贈答することは、近世まで賀茂神社の社家の間では行われていた。それは古来の卯杖に仏教的要素が加えられたもので、桃の木を材料にして白く削って一尺余あり、倶利伽羅竜、すなわち宝剣に黒竜がまといついた形をなしていたという。・・・」(引用者註:『広辞苑』には「【倶利伽羅竜王】:・・・形象は盤石の上に立って剣に巻きついた黒竜が剣を呑む姿を示し、火焔に覆われる。」とある)。

 

【卯槌】

「卯杖から変形したもので、卯杖と同様に、正月上卯の日に、年中の悪気をはらうための呪具として、宮中に献じ、また贈答し合ったもの。桃の木で作り、形は四角で、長さ三寸、広さ一寸ほどで、竪に孔をあけて、五尺ほどある五色の糸を十筋または十五筋通した。・・・

明らかに卯杖の変形で、卯杖が衛府から献ずる男性的なものとすれば、卯槌は女性側から献じる物ということができる。『枕草子』によれば、五寸ほどの卯槌を、卯杖と同様に頭部を紙で包み、これに山橘・日蔭葛・山菅などを結んで贈答したことが見えている。卯槌といっても、その形は一定せず、後には卯杖の先に卯槌をさしたような形のものも現れた。・・・」

 

(上記引用文中、卯杖を男性的とし、卯槌を女性側から献じる物とあるのはいささか判りにくいところであろうか。この点については、後にも引くであろう江馬務の論考に「宮中へ献じた正式のは卯杖の方で、それが為め卯杖献上の式があり、既に内宸式(引用者註:内裏式)延喜式儀式、北山抄等に見えているので、卯槌の方は私の方で、さる厳かな式もなく多く軽い方法で献上し、それも皇后宮の方などの御内々へ献上したのらしい。故におもて向の記録には出てゐないと解すべきだと思ふ。」(『風俗研究』第八十号所収【卯槌卯杖粥杖の研究】)との記述が導きとなろう。)

 

 

また『古今要覧稿』(国会図書館デジタルコレクションで公開されている。書名で検索すれば複数の版/巻が挙がってこようけれど、https://dl.ndl.go.jp/pid/1766931が見易かろう)【卯杖】の項には「・・・卯杖を漢の剛卯(ごうぼう)に倣いて作りたりといふ説は誤りなり。詳しくは釈名に記せり。されど、早くより誤り来たれることと見えて・・・」とあり、『類聚名物考』から「或説に卯杖は漢剛卯にならふといふは誤なり。それは正月卯の日にはつくれども杖の如き物にはあらず。銭の類ひにして宝貨なり。」を引用しているほか、その<釈名>の箇所に「・・・剛卯をそのままにうつせしものは卯槌なり。卯杖は名こそ似たれ形状は自ずから別なるものなり。・・・」との註記がなされている。

また、『四季草木行事/春部』から「三光院の御説には今の世に賀茂より卯杖とて在家などへ送れる(引用者註:“贈られるもの”の意か)は、一尺あまりの白くけづりたる木、ひかげの葛など言ひて、倶利伽羅龍のかたちに作れる物なり」の一文が示されている。この引用文は、後に見るいくつかの記述の典拠ともなっておろうけれど、出典たる『四季草木行事』(、また「三光院の御説」)にはいまだ行き当たっていない。

 

(『名物考』には上記の引用に続けて、「よく漢書の事を下に出す。見る人、その異なるを知るべし。ただ桃を用といふに依て傳会せし事なり。」とあり、『(前)漢書』などからの引用を添えた後、「今按ずるに剛卯を今卯杖卯槌の事に当つるはその故なし。ただ正月に制る(つくる)故、卯字に依て卯杖とするのみ。その制自ずから同じからず。剛卯は厭勝(まじなひ)の札なり。又は銭の事にも成れども、それは猶また異なる事なり。よくよく考え別つべし。」と記されている(国会図書館デジタルコレクション『類聚名物考 第五巻』、digidepo_898157、153~154頁)。何らかの贈答、あるいは奉納などに充てる金銭を卯杖と称することがあったのかと思うが、不明。ちなみに『角川新字源』に「厭勝:まじないをして相手をうち負かす。」とある)

 

また、『要覧稿』【卯槌】には

「卯槌は正月の卯の日卯杖と同じく糸所また諸衛府よりも奉れるものなり。但それは昼の御座の西南の角の懸角の柱にかけらるるなり。これはみな初春を祝いまいらせん為にかくは奉れるなり。いつの頃より奉り初めたるにか詳らかならねど、和学講習所蔵文徳実録古抄本に仁寿二年正月己卯諸衛府献㱾(引用者註:左一文字は[亥+殳]、音は“かい”らしい)杖と見え、・・・㱾は説文に大剛卯也以逐精鬼と見えて、剛卯と言ふも同義なれば卯杖卯槌を兼ねて㱾杖、また卯杖とは言へるなるべし。然れば、持統天皇仁明天皇に奉れるは卯杖のみにて文徳天皇以下三代実録等には剛卯杖と有りて、卯杖また御杖とばかり載せたる所なければ、文徳天皇以来は必ず卯槌を添えて奉る事とは成たるなるべし。」とある。

 

(同じ“モノ/コト”の呼称が時の経過や記録者によって変化する可能性があること、さらに「何某か、ある“モノ/コト”が<そこに書かれていない>ことを以て、必ずしもその“モノ/コト”の不在が証され得る訳ではない」といった事情を鑑みれば、『要覧稿』におけるこの論の展開が当を得たものであるか否か、判断を保留せねばならぬのではあるまいか。ここでは諸資料を十分に咀嚼し得ておらぬ愚生の浅慮蒙昧かもしれぬけれど、「書かれていないものごと」についての留意は常に怠ってはなるまい。なお、先に見た『年中行事辞典』に「卯杖と同様に、正月上卯の日に、年中の悪気をはらうための呪具として」とある一方、『要覧稿』にて既に「初春を祝いまいらせん為に」と記されていることに意を留めておこう。厄除と祝賀とは“まつり(祀り・祭り)”に連なる点において近接したれども、その性は相異なるものと私は思う・・・おたくんことまで知らんけど・・・)。

 

さらに『要覧稿』【卯槌】の項には「(枕草子に)五寸ばかりなると書けるはなみなみ(引用者註:並々、添えられた絵図から二尺四寸~三寸ほどか)よりいと長きやうなれど、これは頭(かしら)を包まん料に(引用者註:包むために必要な余地を確保するために)わざと長く作られしなるべし」と見え、同項<正誤>の箇所に(湖月抄に「卯槌卯杖同じことなり。又云、卯杖卯槌大方は同じようにて聊か其の姿変はれるなるべし」とあるのを引いて)「卯槌は剛卯の遺風にて玉又は金又は犀角象牙又は桃木を四角に作り長き組(引用者註:五色の組み糸/緒)を下げたる物也。卯杖は種々の木を用ひて長さ五尺三寸に伐たるを二本或は四本を一束としてあまた進る(まいらする)物なれば、その製(つくり)大に異なるもの也。大かたは同じやうにて聊か其の姿の変はれるといふは誤りなり。卯槌は小さき木に長き糸を下げて美しきものなればわが君のもてあそびがてらまいらせしなり。卯杖は五尺あまりの杖の頭を紙以て包みしのみなればいかで幼き人のもてあそびには成べき」といった記述も見える(「卯槌は・・・わが君のもてあそび」云々については、源氏物語・浮舟の「正月のついたち過ぎたる頃・・・若宮のお前にとて、うづち参らせ給ふ。」との一節から来ているのだろう。卯杖っちゅーよーな、五尺を超える木ぃの棒のてっぺんを紙でくるんだだけのもんやったら、とーてー子供のおもちゃなんぞにゃぁならしまへん、ですと・・・)。

 

(加えて申さば、講談社学術文庫『有職故実 上・下』の底本である石村貞吉『有職故実研究』(国会図書館デジタルコレクションにて公開、但し図書館利用登録を要する)の記述は要点が簡潔にまとめられており好もしい。また、当然のことながら『要覧稿』と重複する引用記事も多く見られるものの、『古事類苑』の当該項にも目を通しておくべきであろうことは申すまでもなかろう・・・、とエラそうにうそぶきつつ、当方とてすべての条の出典を改め、丹念に読み解いた身にあらざること、更に以て申すに及ばず・・・(^_^;) )

 

 

何はとまれ、上掲諸資料をざっと一覧した限りにおいては、卯杖と卯槌、起源を異にするのか、元は同じものでありながら、その形状・長さによって異称を背負うこととなったのかなど、はきと見定めようがないというのが実情であるらしい。

 

 

さて、いま少し、国会図書館デジタルコレクションを通じて閲覧できるものから拾っておこう(無論、これらが全てではない)。

 

・若月紫蘭 著『東京年中行事』上の巻,春陽堂,1911. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991464

 

【卯杖と卯槌】の項に、

「初卯の日に亀戸の天満宮へ参ると、卯杖と卯槌の二つを拝殿で頒って居る。明治二十四五年頃の風俗画報によると近頃はないやうであるとあるから、其頃は之を売ることが途絶えて居て、近頃また復活されたので有るらしい。

卯槌と云ふのは径七分長さ五寸位の木を八角に削って、之に青赤の絵の具と墨と胡粉とを用ひて松竹梅を画き、一端に紅白の紙を重ねて、五色の糸で之を結んだもので、卯杖は長さ三尺許の黒竹の一端を卯槌と同じ紅白の紙にて包み、矢張五色の糸で結んだもので有る。

卯杖は昔は御杖或は祝の杖と云って、精魅を逐い悪鬼を払ふものとして、卯槌の方も卯杖と同じく初春を祝ふ為のものとして、正月初卯の日に一番に諸衛府などから献納したもので有る。けれども卯杖は持統天皇時代既に用ひられて居るに係らず、卯槌はずっと下って文徳天皇時代に至りて始めて卯杖に添えて奉ったらしい処を見ると、卯槌と卯杖は必ずしも同時に起ったものではないらしい。」とある(ここにも「精魅を逐い悪鬼を払ふもの」であった「卯杖は昔」から「祝いの杖と云」われてきたことが示され、また「卯槌の方も卯杖と同じく初春を祝ふ為のもの」と性格づける記述が見える)。

 

 

・清流斎皎月 著『生花初まなび : 諸流秘伝』 6 編, 久栄堂書店, 大正1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/912889

 

【蘿蔓(ひかげかづら)の事】の項に

「(日蔭蔓は)本を鳥子紙にて包み、山草藪橘を添ることあり。尤も色紙は色目重を用ゆ。之れを床に飾るには、卯杖、卯槌の古例を以て飾具と為し、卯杖は往時、正月上の卯の日に神社より献じたるを祝の杖と致されたり。杖に飾られたるは左の図の如し。

 

右の本(もと)は鳥子紙にて松葉重ねにし、又は紅梅重ねにて包むなり。杖は桃柳等の木にて、四角に削るなり。寸法は五尺三寸なれども略して其の分量に縮む。床飾りに用ゐる卯杖は、略して寸法を縮め、本を大和錦にて包み、楮の皮にて山橘、山菅、日蔭蔓を結び添へ、頭を鳥子紙にて包み、尚ほ其の上を結びて葛釘に懸くる輪を製ゆる(こしらゆる)なり。」とあり、左:「蘿蔓之図」、右:「蘿蔓卯杖に錺る図」2点の絵図が添えられている。

 

(当資料は「文化庁長官裁定を受けて」インターネットにて公開されているものであり、国会図書館の利用登録を行わずとも閲覧可能であるが、転載に際しては著作権者の許諾が求められるという。本稿にては、許諾を得ずとも通例認められる引用の範囲に留まるものと思いはするが、一旦図書館に問い合わせ、先述の回答を得た経緯があるので、後に起こり得る煩わしい事態を招かんことを避けるため、ここへの引用は差し控える。)

 

 

・四時堂其諺 編『滑稽雑談』第1,国書刊行会,大正11 再版. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/926042

 

【卯槌】

「今の世に賀茂より、卯杖とて在家などにおく成は(引用者註:贈るなるは?)、一尺あまりの白くけづりたる木に、ひかげのかづらをまとひて、倶利伽羅龍の形に作れる物なり。」

 

 

・宗政五十緒, 森谷尅久 編『京都歳時記』,淡交社,1986.2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9576118

 

【初卯の日 初卯の神事   上賀茂神社】

「卯杖の神事ともいう。卯にちなみ、卯木の枝に石菖蒲・藪柑子・日陰蔓を菊花の形に巻いて作った長さ三〇センチほどの卯杖を神前に奉じ、悪魔を祓う。・・・近世には賀茂社の社家の間で贈答されたが、それは桃の木を使用し、宝剣に黒龍というもの。・・・」

 

 

さらに付言するなら、柳田国男監修による民俗学研究所 編『年中行事図説』,岩崎書店,1955. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9546230 より、年木・新木(にゅうぎ)、削り花、祝い棒、もぐら打ち、とんど・左義長、鷽替・初天神、亥の子などの項目も目に収めておく価値ありと思う。

 

 

*** 補論

 

ところで、此度の調べを進めゆくうちに、有職故実学者として名高い江馬務の論考において、いささか気になるところが浮かび上がってきた。氏の業績に異を唱えるものではないが、書き留めておく。

昨年末、通りすがりの国会図書館デジタルコレクションにて当方の目に入った卯杖・卯槌に関する氏の記述は下掲4点。

 

・江馬務 著『日本歳事史』京都の部,内外出版,1922. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1839534(大正11年)

 

125~127頁:【九二 賀茂卯杖】

「正月初卯日に賀茂から在家へ卯杖といって一尺余の白く削つた木に日蔭鬘を纏はし、倶利伽羅龍の如くしたものを贈ることがある[四季草木行事、雑談抄]。

又賀茂神社に於ては卯杖の神事が行はれてゐる、それは楊櫨(うつぎ)を一尺五寸に切り、紫金牛(やぶたちばな)、石菖をおがせ草で纏はして之を神前に献ずるのである。(・・・おがせ草は日蔭鬘で、・・・)」

 

※126頁(86コマ目)に「卯杖(京都市立絵画専門学校所蔵)」の写真あり。国会図書館利用登録後、閲覧可。

 

 

・江馬務 著『古礼式大系』,国風社,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1177512

 

139頁:【三毬杖】、140頁:【粥杖】、141~142頁:【卯杖、卯槌】

 

※140頁(92コマ目)に「毬杖(風俗研究所蔵)」、143頁(93コマ目)に「卯杖(風俗研究所蔵)」の写真が掲載されているが(後者が、今日しばしば掛け蓬莱と称されるものに近い姿を示しているように見える)、閲覧には利用登録を要する。

当該画像を説明するものではない模様ながら、【卯杖、卯槌】項の本文に以下の記述あり。「因みに平安朝以後は卯杖は卯槌に近接し、椿枝に日蔭蔓を実際つけることもあり、賀茂社では、うつぎを一尺五寸に切り、山橘、石菖、おかせ草で纏ひものとした(引用者註:ここでは「おかせ草」と記されているが、誤植か)。

江戸時代には卯杖といへば、桃木に錦を巻き紅白で頭を包み、藪柑子、山菅に日蔭蔓を下げ、鶯をつけたものであり、・・・」

 

 

・江馬務 著『新修有職故実』,星野書店,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1220627

 

259~260頁:【御粥・粥杖・御薪・三毬杖(爆竹)】、263~264頁:【卯杖・卯槌】

 

※264頁(153コマ目)に「卯杖(自蔵)」の写真あり。要利用登録。なお、『江馬務著作集 第八巻』の口絵に下掲・同氏蔵の卯杖の写真が掲載されている。いづれの画像も不鮮明なため判然とせぬが、おそらく同じものであろう。

 

<< 図1 >>

 

 

・日本風俗史学会 編『風俗 : 日本風俗史学会会誌』6(3)(23),日本風俗史学会,1967-03. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2215329(昭和42年)

 

22~31頁:【毬杖・卯杖・卯槌・左義長と羽子板との関係について】

 

※24頁に「第三図 住吉の卯杖」、25頁に「第四図 宮中の卯杖」の絵図あり(共に14コマ目)。要利用登録。

 

江馬はこの『風俗』誌所収論考(これは『江馬務著作集 第九巻』にも収められているが、少しく表記を異にする。以下の引用文は『著作集』に基づく)にて、「清涼殿昼御座の御帳に、該六角の槌形の卯槌を角柱に並べて立てかけたほかに、五尺の細木の柱をこれに添えたのである。・・・さてまた卯杖というのは、・・・長いものは「杖」、短いものは「槌」といったのらしい。そして平安朝時代初期にはこの卯杖を生気の方(恵方)の獣と並べて州浜台にのせ、宮中に献上したこともあった。以上述べたところで考えられることは、六角の卯槌と五尺三寸の卯杖とは、同一の性質のものであり、ともに卯の日の厄除として用いられた。・・・」と記している。

この論考はまことに興味深いものではあるが、そこに説かれている左義長、さらに羽子板との関連に至っては、当方、その是非を判断し得る能を持たぬものながら、直ちに首肯することは出来ずにいる旨、申し添えておこう(参考までに触れておくと、『著作集 第八巻』巻末、鳥越憲三郎による【解説】に「(『日本歳時全史』の内容は、・・・)その解説にあたっては、可能な限りの歳時記類をはじめ、日記や文学書、有職故実、史書などが用いられ、多方面からの文献考証が行われている。そして、その上で江馬先生独自の解釈が試みられている。・・・その祝い棒(引用者註:粥杖)を、卯杖や毬杖を十五日に薪として焼いたことに起源するとし、・・・ここには江馬先生の独自な解釈が試みられている。その説の賛否は人によって異なるであろうが、こうした新説も随所に見られる。」との一節がある)。

 

 

ところで、であるのだが、この論考【毬杖・卯杖・卯槌・左義長と羽子板との関係について】には、『古礼式大系』に示されている通り『風俗研究』誌に掲載された江馬自身による先行研究がある(「第三十三号:毬打、ぶりぶりと羽子板の新研究」、「第八十号:卯杖卯槌粥杖の研究」、「第八十二号:卯杖卯槌粥杖の研究(その二)」の3本。但し、八十二号の内容は専ら粥杖に関わる稿であり、ここでの関心事とはやや距離がある)。

 

論の展開それ自体に変化が見られるワケではないのだが、添えられた図版の説明に異なるところがあり、いささかの疑念を覚えざるを得ない。

 

『風俗研究 八十号』所収、【卯杖卯槌粥杖の研究】(清文堂出版株式会社による復刻版)には次図が掲げられており、このうち第二図、第四図についてはそれぞれ「第二図:古今要覧稿には屋代弘賢按のものが図せられ、五色の糸を十筋若くは十五筋垂らしたものとし、・・・」、「第四図:後世は桃木に錦を巻き、紅白で頭を包み苧で釣り、藪柑子石菖に日蔭蔓に鶯をつけたものを以て卯杖と称し、坊間(引用者註:世間、街なか)に売っている。」と説かれている。念のため、ここに『古今要覧稿』に見える屋代按をも示しておこう。

 

<< 図2 >>『風俗研究 八十号』掲載図

 

<< 図3 >>『古今要覧稿』【卯槌】屋代按

 

 

次いで『風俗』誌所収論稿に移りたいのだが、これも先に述べたと同様の事情により、ここへの引用を控えざるを得ない。ご関心寄せられしお方様におかれては、お手許にて国会図書館の利用申請を。

同稿には「わたくしが以前に見た、住吉神社の卯杖というのは、四角な木に五色の紐が通してあるもので、・・・」とあり、「第三図 住吉の卯杖」が添えられている。この絵図は上に引いた『風俗研究八十号』稿・第二図、『要覧稿』・屋代按とほぼ同じもの。

続いて「これらよりも更に複雑な卯杖というのは、後世宮中で正月右卯日にかけられる卯杖である。これは「枕草子」にも記されていて、桃の木の心棒に、赤地錦を巻き、棒の上を白と赤の紙で包み、その下に山菅と山橘(藪柑子)の造花をとりつけ、中程に鶯をとまらせ、下に日蔭蔓を吊したものである。」と述べると共に「第四図 宮中の卯杖」が描かれているのだが、これは概ね「坊間に売っている」との説明が添えられた『風俗研究八十号』稿・第四図と同じ画である(『風俗』稿・第三図、第四図共、先行する『研究』八十号稿絵図との類似の程度は“敷き写し”とまでは申さずとも、“かなり高い精度の模写”くらいには評価され得よう)。

 

さて、ほんでから、って、って、ってところであるが・・・『風俗』稿発表後10年を経た昭和52年にまとめられし『著作集第九巻』に、これら2点の図版は掲載されていないのである。「読者の理解促進に、さしたる益無し」って? んなこつ、あるまいて・・・(-_-)

 

当該論考冒頭に「その後これらに関し、さまざまの史料を得て、追々と明確になって来たため、ここにこれを修正・補足して、本編を記することとした。」とあるので、「わたくしが以前に見た、住吉神社の卯杖」が要覧稿・屋代按と、また、「その後」得た宮中の卯杖の史料が、「後世・・・坊間に売って」いたものと同一形状であったのかもしれぬが、「原則として著者による検閲を得、著者の指示を仰いで、題名の改変、字句の訂正、本文の補訂を行った」(『著作集』編集後記)後、ほとんど本文を同じくする『著作集』に図版が載せられていないのは何故であろう。

江馬ほどの大学者が「宮中の」なんぞとのたまうと、その言を盲信して有り難く奉ってしまう御仁も少なくなかろう。氏が資料の扱いをぞんざいにするとは思いたくないのだが、あるいは出版に際して何らかの意図(忖度?)でも働いたのであろうか・・・。

 

ことのついでに触れておこう。『風俗研究』誌・三十三号稿にて「卯槌もまた藤原時代には卯杖を倣って頭を包んで山橘日蔭鬘山菅などを飾ることとなった(枕草子)。かくして両者は漸次相近よることとなったのであった。」とする一方、八十号稿にては「卯杖は前述の如く長くしかも自然木となり、卯槌は槌形で装飾がついてゐる・・・ことに注意すべきは卯杖が卯槌に漸次接近する傾向があったといふことである。」と、先に装飾をまとい始めたのが杖と槌のいづれであったのかについては異なる見解が示されているように見える(前者は杖先行、後者は槌先行と私は受け取った)。因みに、後にまとめられた【毬杖・卯杖・卯槌・左義長と羽子板との関係について】にては、当方の見落としでない限り、この件に関する言及が控えられているようだ。

この点を判ずる根拠の一つに(一つだけかも・・・)『枕草子』の「五寸ばかりなる卯槌二つを、卯杖のさまに頭などを包みて、山橘、日かげ、山菅など、うつくしげにかざりて・・・」なる一節を挙げることとなろう。このとき、ここに見える「卯杖のさま」を「頭などを包み」たところまでと捉え、<卯杖みたいに切ってきた長い棒きれのてっぺんなんぞを包んだだけではチト寂しおすさかい、かいらしい卯槌には山橘・日蔭蔓・山菅などを足し込んで飾ったげてんか>と読み取るのか、あるいは卯杖が“すでに”「山橘、日かげ、山菅など」によって「うつくしげにかざ」られていたと解するのかで、その解釈が分かれるのだろう(上掲『枕草子』からの引用文は角川ソフィア文庫版に基づいた。この引用例の如く「頭などを包みて」の後に読点「、」を打てば、卯杖に施されていたのは頭部の包みのみであった解するのが通例とみなすことが概ね許されようけれど、山橘以下をも含むと捉えることを不可と断ずることまではできぬであろう。一方、「卯杖のさまに」の後に読点が記されているなら、卯杖がすでに日蔭蔓などの装飾をまとっていたと受け取ってよい可能性が高まるのではなかろうか。草紙を今に伝える写本は句読点を持たない(下図参照)。所詮どっちゃでもええハナシに相違あるまいが、往時の事情に疎い後世の読者にとっては、句読点の有無/位置によって文意が揺らぎ得るところを押さえておく必要があろう。もっとも、江馬・三十三号稿にも読点が示されておらぬため、卯杖の方が卯槌に先だって装飾を施されていたと解した上での記述であるか否かは判然としない・・・ように思う・・・の・・・だけど・・・。このようなある種の曖昧さは、詩歌ならば情趣/余韻として作品に深みをもたらし得るものと歓迎されるのであろうが、ものごとの定義付けを試みるに際しては厄介を招く)。

 

 

<< 図4 >>清少納言 [著]『[枕草子] 5巻』[2],[寛永年間]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2544456 より:赤括弧で示すは「五寸はかりなる・・・うつくしけ(なる)にかさりて」の箇所

 

まぁ、それはそれとして(?)、八十号稿に見える「(卯杖の)頭と中央以下を紙で包む風習は不明であるが、束にするのに離れぬやうにしたことから起因していやう。」との極めて即物的なる一文には、幾千万もの「いいね!」を進呈したとてなお不足に思うことだろう (^_-)

 

っで、なおのなおまた、ついでのついでのことながら『風俗研究八十二号』所収の論考に

「この削掛といふは抑(そもそも)何の意味であるか。私一個の考へでは木の皮を剥ぐことから此の削掛の風俗を生じたもので、木の剥ぐことの起原は、かの天窟戸の変の時に麻や楮の皮を剥ぎ、之を青和幣(にぎて)、白和幣と称して天香山の榊に吊り、大神に敬意を表せられ、一時も早く天窟戸より出御を願はれた。かく皮を剥いだ木が衷心の敬礼であり、祈請であることを意味するので、爾後木の皮を以て作った苧も又その繊維で織った布もが、祭神の具となり、又皮付の木転じて削り屑をつけた木も、神に対する祈祷の意を寓することとなったので、原始時代のこの風俗は後世も何等かの形式となって残ってゐる。」とあることをも書き添えておこう。

『広辞苑』には「【和幣】:紙に供える麻の布の称。後には絹または紙を用いた。」と、また『岩波古語辞典』には「【和幣】:楮や麻の繊維で織った布で、木の枝などにかけて神にささげるもの。後には布の代りに紙などを使った。」などとある。当方もそのように受けとめており、神話の時代であれ、すでに布が用いられていたものと解していたのだが、このような見解が碩学の手によって示されていようとは・・・。余談ながら、『岩波古語辞典』に「【幣帛】:①神前に献ずる物品。②紙または布帛を細長い木にとりつけた神祭用具。本来、神霊を降臨させるための木であった。」と見える。「本来」以降の記述に従えば<幣帛=依り代としての木>ということとなり、これは即ち<幣帛は本来、捧げ物ではない>との意と解してよいのだろうか(私見ではこれを是としたい。もっとも、天岩戸を巡る神話においては、神々が幣帛を以て神の降臨を祈祷するという次第となり・・・なるのか?・・・なんのこっちゃらよー判らんようになってくるのだが・・・)。

因みに『日本年中行事辞典』【削掛】の項に「紙の入手が困難であった時代に幣として用いられたもの」との記述がある一方、『年中行事図説』【削り花】にては「これを造る技術や根気は、もう非常に衰えているが、それは一つには白紙が自由に手に入るようになり、これを以て代えるようになったからである。」とされている(削り花は削り掛けと同義と見てよいだろう)。前者においては削り掛け・削り花が略儀、後者にては紙を用いる(木や枝に紙垂を結わえ付ける)のが略式という位置付けとなるのだろう。

 

 

*** 補論、ここまで

 

(其の二)に続く

 


予めお断り申しておこう。本稿は折形とは無関係にて候 (^_^;)


ひょんな事からこの度、ハロウィンに関わる折り紙を幾つか仕立てる次第となった。
その過程で巡り会ったものから3つばかり、ご紹介申し上げよう。


* コウモリ


これは 【折り紙ブログ / blog】 を主宰しておられる「おもちゃ箱」さまご提案のコウモリに基づき、少しく手を加えたもの。

(参照動画:【ハロウィン折り紙】教会とコウモリの折り方 Origami church ・ bat Halloween

上掲第1私案は、立てて据えることが不可能では無いながら、安定を欠くところが気になったため(平置きにすると頭部がやや大き過ぎるとの印象を免れ得ない)、その点を解消すべく試みたのが次なる第2私案(折り図:「別法」)。
こちらは自立する(ハズ)一方、特徴的に開く両翼の指の関節(?)間の距離が短くなってしまうところが悩ましい・・・。



コウモリ折り図


続く2点は、著名な折り紙作家 Jeremy Shafer 氏による頭蓋骨、並びに手の骨。共に YouTube にて製作過程が公開されている。

*頭骸骨

*手の骨


ご承知の通り(?)当方、具象を旨とするいわゆる(遊戯的)折り紙にはあまり積極的な関心を寄せることなきままに過ごしてきたのだが、これらには魅せられた。

 

 



もとより会心作と申すほどのシロモノではないが、向後愚生の手許にて、これを凌ぐ”おもろいもん”が生まれ出る可能性は皆無であろう。無論、小生遺影の筆頭候補に挙げておくつもり (^_-)

 


過日ご紹介申し上げた『女子教科 包結之栞』のうち、「風呂敷包」に瑕疵ありとの報せが寄せられました。
戸惑いを覚え無駄な時間を費やすこととなったお方様には深くお詫びを申し上げる次第でございます。

修正済みの図面をご用意いたしました。必要あらば差し替えのお手数を賜りますようお願い申し上げます。

図版

 

展開図

なお、このところ、PCの作図ソフトにて調整作業を済ませ、実作による確認を怠ることがほとんどでありますため、同様の誤りが他にもあろうことと存じます。
お気づきのことどもがございますれば arakihouraidou@jcom.zaq.ne.jp 宛、お報せいただけますれば幸甚に存じます。

 

 

このところ投稿が間遠になっていることからご拝察いただいているであろう通り、今般ご用意いたした

 

「型紙拾遺:第二輯」

 

を以ていよいよ無免許皆伝畢、折形について当方知るところの能うる限りを記録し終えた(平たく申さば“ネタ切れ”。もっとももう一つ、菊の御紋付きのご大層な器に収められた雛形の集成が残っているのだが、折り襞の各所が皆糊付けされ開くことができぬ状態のものが多いため、現時点にては手の施しようもなく・・・)。

 

愚生、これまでに紹介してきたことどもはそれなり多数に及ぶと申してよかろうが、たまたま手許に預かる次第となった雛形の集成は、氷山の一角どころか流氷の一片に過ぎぬだろうし、国会図書館デジタルコレクション(先ごろ個人向けの送信サーヴィスが拡充され、閲覧できる資料が増えた)をはじめとするさまざまな古書の類にしても未だ目に及んでおらぬものが数多くあろうことは勿論のこと、確かに眺めはしたにもかかわらず不注意ゆえに見落としたところも枚挙に暇なきことなど言を俟つまい。

さらに浅学ゆえの、また、独善的な思考や視覚の歪みに基づく誤解・曲解が多分に含まれてもいることだろう。好学の御仁による追究を切に望むものである(無論、当方としても公開済みの型紙/展開図の不備、駄文の誤りなどについては随時正してゆきたいと思ってはいるものの、何分幼少の砌より復習なるものが苦手であるため、さて、何時になることやら・・・)。

 

ところで、熨斗が今日、甚だ乱暴な言説によって従来担ってきた大役の一部を剥ぎ取られるという不当な扱いを受けている事情については既に述べた。

このことに関して別稿にて触れたことがあったか否かを覚えておらぬが、当分稿を起こす新たなネタが見当たる気遣いもなさそうなので、この機会に、機嫌を損ねた熨斗に代わり、進物には生花(せいか)や新鮮な草木の葉(常緑であらずともよいのではなかろうか)を添えて贈ることをご提案しておこう。無論、その贈答機会の如何、相手次第ではあろうけれど、事情が許すなら、庭先、路傍の花葉を少しく手折り、風趣を添えるのが好もしかろうと思う。

 

下図はその一例:よりよき姿は皆さま方のお手許にて (^_-)

 

 

 

***

 

以下、余談。

 

当方無粋につき、茶道はじめ一切のお稽古事の嗜みを持たぬのだが、過日、何を勘違いなさったのか、某氏より茶道と折形との関わりについてご下問があった。当然「左様なことは茶道のお師匠さんにお尋ねなさいませ」と応ずるのがせいぜいであったが、何がしか引っ掛かるところ無きにしも非ず・・・。

 

小生、いつであったか、さるやんごとなき御仁に招かれそのお点前を拝見したことがある(お世話になったお方様への献花・献茶のお席であったと記憶する)。その折り、ご亭主が茶杓などを包んだ上でお点前を進めておられたのを目にしたのは確かなのだが、至って小心者の当方、当然のことながら緊張の極みにあったがため、何がどのような出で立ちで配されていたのか観察する余裕など望むべくもなかったのが悔やまれる(道具の何某かを折形にて包むことが、茶道の流派の何れかに継承されてきている作法であるのか、あるいはそのお家固有の流儀であるのか、もとより当方の知り得るところではない)。

 

この、まさに一期一会にして稀代なる機会における焦点定まらぬ我が目の奥に残り居りしおぼろげなる記憶のほかには、最も基本的な形状の折据が七事式の花月とやらいう茶事(? 詳細を知らず)に用いられているらしいということ以外、これまでのところ「こういう時には、このような折形でこれを包みますねん」といった旨の茶道/茶の湯と折形とのかかわりを示す資料には行き当たっていない。

無論、茶道具のさまざまが贈り物として行き交ったのは確かであろうし、黒棚などに飾り置かれることも少なくなかったようではあるが、当方これまで管見の限りにおいては、進物に際しての飾り方(献上台・広蓋などへの据え方)を伝える積物図や床飾りの様子を描いた資料の中に、折形に包まれた茶道具の姿を目にすることはなかった・・・ハズ・・・。

 

基本的に(あるいは建前として)茶の湯は質素を旨とし、余計な装飾などを拒絶するものであろうから、折形とはいささか距離があると見るのが妥当ではないかと思う(流派による違いもあろうけれど)。

と申しつつ、では全く関連はないのかと問われると、さにあらず、どこかしら通底するところがあるように思われてならぬ。そこで、わづかばかり手許に転がっている茶道関連の書物を眺めていたところ、次のような一節に巡り会った。少々長くなるが、引用してみよう。

 

 

『茶の精神』(千宗室、淡交社・裏千家茶道基本教程)より。

 

///(引用、はじめ)

 

茶の湯の理想とするものは何か、と問われた時、「他界観念的な遊戯性」にあると答えたい。・・・要するに、現実の社会にありながらも、次元の高い精神の遊びを実現しようとする努力である、という意味に理解されるべきだと考える。・・・

何のために、こうした露地を踏まなければならないのだろう。・・・門がある。・・・この露地の門は、まことにささやかな枝折戸(しおりど)風のものである。

・・・

枝折戸は、たしかに形式はとっているが、世俗的な門の機能をはたすために作られたものではないということである。とすれば、枝折戸の向こう側とこちら側とは同次元的な地平の上には立っていないという事になるのである。向こう側は、同じ露地の延長にありながら、枝折戸を境にして、次元を異にした世界として意識させようとするのである。だからお粗末な門でよいわけであり、世俗的な豪奢な門であっては困るのである。

・・・枝折戸の外側を世俗的な世界と見れば、門の内側は世俗を越えた、脱俗の境地だと言ってもよいだろう。・・・茶が世俗のものであってはならないからこそ、こうした手続きを必要とするのである。茶室に向かってさらにすすめば、なおその事情は明瞭となるに違いない。茶室の前には蹲踞がある。客はここで手水をつかう事になっている。

 

露地にて亭主の初の所作に水を運び、

客も初の所作に手水をつかふ、

これ露地、草庵の大本也、

此露地に問ひ問ハるゝ人、

たがひに世塵のけがれをすゝぐ為の手水ばち也

 

と『南方録』に記されている事に注意する必要がある。

 

///(引用、ここまで)

 

 

ここに引かれた『南方録』の記事については、『『南方録』を読む』(熊倉功夫、淡交社)の当該箇所【解説】を参照しよう。

 

///(引用、はじめ)

 

この一節は、手水鉢の水を通してわび茶の心を語ろうとしたものだが、はからずも、茶の湯がいかに日本人の伝統的な心意に深く結びついているかを語ることになってしまった。茶室にはいる前に手を洗うのは衛生のうえで必要なことだ、というのは現代人のものの考え方である。手水を使うのは単なる衛生のためではなく、心身を清める儀礼なのである。だから“清潔”と“清らか”ということを混同してはいけないので、日本人の“清潔”は衛生的ということより、精神の“清らか”を意味している。

たとえば神社へ参拝する。すると、鳥居の手前に必ず手水鉢があり、ここで参拝者は身を清め、“ケガレ”が神域に及ばぬように用意しなければならない。この場合の鳥居は、聖なる場所と俗界とを仕切る結界であり、“キヨメ”がすんだ者だけが通り抜けられる門である。

いいかえると、仏教が日本に渡来する以前から、日本人の意識として、“キヨメ”と“ケガレ”が大切な意味を持っていた。日本人は儀礼の場とかハレがましいところへ出る前には始終“キヨメ”をくりかえす、という習慣を身につけている。

 

///(引用、ここまで)

 

 

にじり口が、人を別世界に誘う芝居小屋の入り口に着想を得たものだとか、岩場の細い隙間/亀裂などを通り抜け、死と再生/生まれ変わりを擬する胎内くぐりの類に淵源を求めることができるといった躙り口結界説はしばしば目にしてきたところだが、手水をその不可欠の一要素とする露地もまた、茶の道に至る結界を為しているということには、迂闊にもこれまで気づかずにいた。

結界を設け、清浄な時空においてひと様をもてなす、この点において茶の湯と折形とは等しく「次元の高い精神の遊びを実現しようとする努力」であることを改めて教えられ、今さらながら深い感銘を覚えた次第。

(・・・ではあるが、さて、こたびの病禍により多くの厄災除けの祭礼が規模の縮小や中止を余儀なくされ、寺社においても清めのための手水の使用がためらわれるなど、衛生上の清潔志向を前に祓い・清めといった旧来の清浄観念が圧殺されてしまう光景を目の当たりにしてしまった今日この後、なおも結界なんぞという呑気な仕切り(?)が果たして有効に機能し得るのか否か・・・。

ここ数年の間に、かの手水の幾つかは何チャラ映えを狙った花生けと化しているとも承る。いづれ現世利益を”げんせいりえき”と読んで平然としているお坊さま方が此岸を闊歩なさるのだろうか。無論、花のいのちを慈しむこと自体を非難するつもりはないのだが・・・。)

 

 

茶の湯の歴史に(にも!)詳しくはないが、大雑把にまとめれば次のようになるだろうか。

当初、麻薬的効果をもたらす仙薬(?)として主に僧侶たちの間で嗜まれていたが、やがてバサラ大名どもの闘茶なんぞという遊興の道具になる。時を経て暴力統治下におかれた町人たちの手許にもたらされると、一転して「市中の山居」における侘びを求めるに至った(このくにの風土に適した栽培法が確立されるには時間の余裕が不足したためか、貴族が支配する時代/社会にて茶を飲む習慣はさほど広まらなかった模様・・・なの?)。

 

聖俗を隔てる結界の仕掛けが導入される前にはきらびやかさが伴っていたであろう茶を軸に巡る時空は、利休の企みにより、単色(淡色)の世界におけるつややかさ(と申してよいだろうか・・・墨に五彩あり、はチト違う?)を志向するに至る。

一方、紙包みについてみれば、ケガレを忌む心性に基づくという意味では通底しながらも、貴族社会にては遊興性を帯びた社交のための道具であったものが(香の包みなどが色紙を重ねて折られ、しかも絵が添えられている例も見受けられることなどから、私見ながら、雲上人たちの間ではそのような趣向が好まれていたと想像することは許されるだろうと思う)、武家社会に移りし後には儀礼的な社交のための道具と位置付けられ、白を基調とするものに転じていった(時ここに及んでも、「城殿(きどの)の扇包み」なんぞという「美しく彩みたる(だみたる)」シロモノが残存していたらしいけれど)。

まことに乱暴な括り方に相違あるまいが、そういう観点からも相似たるところがある・・・ように・・・思・・・う・・・よ・・・ねぇ・・・、・・、・、ねっ? (^_^;)

 

 

ここで、いささかの唐突感を免れ得ないかもしれぬが、国語学者・西尾実の論考にも目を通しておこう(「中世的なものの地盤」、『中世的なものとその展開』、岩波書店所収)。

 

///(引用、はじめ)

 

(義満将軍の時代における能楽の創始者、観世父子にとって、能楽の本質的契機である)幽玄とは何であったか。・・・それは京都的、皇室的、公卿的な美を基準としたものであった。

・・・

それならば、能芸における幽玄は、平安時代的な貴族美であるかというと、それとはまた別であって、そこに、いわゆる裏箔が存立しなければならなかった。さらにいえば、この優雅・華麗を裏づける、もっと高次な価値が働いていなくてはならなかった。それは・・・優雅・華麗を「有文」としての「無文」であった。さらに、それは、・・・「有」の形成原理としての「無」であった。したがって、それは、優雅・華麗の対立的、否定的契機であり、また、その弁証法的発展としての、統一の契機であったわけである。

・・・能芸の幽玄は、・・・優雅・華麗を表に立て、それの否定的契機としての「無」を裏打ちにした構造体であり、さらに「有」「無」の対立を止揚した「無」への方向づけであったと解すべきだろう。

利休は、茶の湯において、「わび」を建立したと考えられている。そうして、その「わび」が、何であったか・・・能芸における幽玄美の構造を裏返しにして、表に簡樸を立て、優雅・華麗をもってそれに裏打ちしたもの、それが利休の「わび」であったとすることができるであろう。あの常緑樹のみの植込みに、苔蒸した飛石だけを配した茶庭も、何一つ感覚的刺激の際立たしさも無い茶室のしつらいも、その閑寂にひたりきった主客一如の境も、ただの優雅・華麗でもなければ、ただの簡樸でもない。そこには、洗練の極致としての、きわめて密度の高い統一があり、到りつくした内面性の形象化が成立している。

 

///(引用、ここまで)

 

引用者補註・・・と記しつつ、広辞苑からの引用

 

・裏箔:日本画で(金銀の色調をやわらげるため)絹地の裏から金箔や銀箔をあてること。また、その金箔・銀箔。

 

・有文(うもん):②(世阿弥の用語)声や節回しや手ぶりのよさなど、外形にあらわした芸の美。③和歌・連歌・俳諧で、着想や趣向にすぐれ巧みなもの。

 

・無文:②和歌や連歌で、飾りがなく平淡なこと。また、すぐれた風情のない作品。③(世阿弥の用語)美を内にひそめ、一見何もないようでいて深い味わいのある芸。

 

///

 

 

「正→反→合」と、自己否定を契機とする自発的展開により矛盾を克服し、より高い次元における対立概念の統合を目論む(ヘーゲル的な?)弁証法など、今日すでに止揚、否、使用済みの道具に成り果てているやもしれぬが、引用後段、利休のわびに関する記述箇所は、その語句の幾つかを適宜に置き換えればほぼそのまま、折形についての評語になりはせぬか(弁証法はしばしば、論者自身が分かち得ぬことどもを、判らぬままながら“一緒くた”に綯い交ぜて読者の目を欺く便利な小道具として用いられることもあるようなので、安易な便乗にはくれぐれもご用心なされたし!)。

 

 

さて、このたびの記事は長文の引用ばかり(しかも、近年の研究成果を反映するものに非ず)で恐縮であるが、もう3点、付け加えておこう。

 

 

・『茶道史』(裏千家茶道教科・教養編、村井康彦、淡交社)より

 

ただし二畳とか一畳半といった茶室になると、これは日常生活には存在しない非日常-虚構の空間ともいえる。また「躙口」を意識的に茶室の構成上不可欠の要素としたのは利休とされるが、露地と茶室との結界をなすこの躙口も、それを通過することによって日常性を払拭し、精神的な緊張をたかめるための巧みな装置であったといえる。

こうして利休は、喫茶という日常的な行為に基づく芸能を、ぎりぎり虚構化することにより、精神性を注入したのであった。利休の茶が求道的といわれるゆえんである。

ところがその利休が、

  茶の湯とはただ湯をわかし茶を点てて呑むばかりなる本を知るべし

という道歌をつくり、茶の日常性を説いたことは周知のところである。利休が身辺の日常雑具を種々茶の湯に用いたのも、同じ趣旨であろう。利休は生活文化としての茶の湯がもつ背反する二要素、すなわち「生活」つまり日常性と「芸術」であるための虚構性を誰よりもよく知っており、その関係を極限まで追求することにより、茶の湯の本質を見定めたのであった。

・・・

戦国時代に至って「わび」が茶の湯と結合し、その美意識となった理由なり歴史的条件として挙げられるものは、第一にすでにふれたように、京・堺・奈良といった三都の町衆間に茶の湯が普及し、道具所有熱=「モノ(物)数寄」が昂揚したことである。これは茶の湯が茶碗・茶入・茶壺・茶筅・茶杓など、「モノ」なしには成り立たないことからする宿命といってよい。その意味で「わび」とは、その対極にある有徳者(富裕者)の美意識であり、贅沢の美意識であったというべきものである。

第二は、「さび」が客観的、観照的な美意識として終始したのに対して、「わび」の方は主観的、即物的な美意識であったがゆえに、その中に人間関係を含む実践的な倫理意識にまで進んだことである。・・・「わび」が、モノに触発されて現れる美意識であるだけに、奢らず慎しむことが求められ、その抑制のなかに正直や誠が説かれたからであろう。茶の湯のもつ寄合性が、茶室という場を通して一座建立、一期一会という人間関係を生み出したのである。こうして「わび」は、モノに触発されながらモノを越え、心の問題となった。・・・

第三は、こうした「わび」の美意識から倫理への展開に「仏法」、ことに喫茶喫飯儀礼をもつ禅宗が関係深かったことである。・・・芸能のなかにも認められる倫理性や宗教性は、生活の宗教化といえるし、宗教の生活化のことであるともいえる。そこに茶の湯が茶道と呼ばれ、理念化される要因もあったと思う。

 

 

・『日本近世の思想と文化』(奈良本辰也、岩波書店)より

 

元禄という時代は、たしかにそのような新興町人層の擡頭によって特色づけられる時代である。しかしながら、これをさらに深く見てゆくならば、そこに安土・桃山時代に展開しようとしてまだ十分に開花しなかった王朝文化復活の流れのあることを忘れてはならないであろう。・・・

・・・光琳と乾山を育てたのは、単にその家庭的環境や素質のみに求めることはできない。それは時代の底を流れる力であった。京都の町人たちは、その生活的余裕を深い文化のなかに結びつけようとしていたのである。・・・名物の茶道具を持って、芸術に対する鑑賞眼を養うということが、封建大名たちの茶道に対する接近の仕方であったが、それと同じような傾向がこれらの富裕な町人のあいだには見うけられるのである。

大坂の鴻池が小堀遠州所持という伝来の名器を多く買い込んだのも元禄の頃である。しかも、これらの町人たちは、ただ単に大名の持っていた名器を買い集めるというのではなくて、自らそれを現実の陶工に求めるという態度をもった。仁清のような陶工が現れて、比類のない名品を焼き出すのもそうした時代の要求があったからである。それは華麗にして優雅に充ちたものであった。紀文や奈良茂にみられるような、こけおどかしの奢侈に出るものではなくて、もっともっと洗練された教養が求める文化というものがあったのである。それが宗達や光悦以来の伝統というものであったろう。・・・

 

 

・「利休の茶」(熊倉功夫、草月文化フォーラム編『日本のルネッサンス・上 桃山の宴』所収、柏書房)

 

・・・「手前」というのも不思議なもので、お茶をたてるときに、柄杓をどう持ってこうして……。なぜこんなことをするんですかと聞きますと、お茶の先生は、ごらんなさい、無駄がないでしょう、これが一番合理的な手順なんですと言いますが、どうしてあれが合理的なものですか。合理的でもなんでもない。これは何かというと、美意識です。美しく見せるためのパフォーマンスなのです。

つまり一つの動作を何度も繰り返したのではおもしろくもおかしくもない。それを、ああきれいだな、美しいな、おもしろいなと、いかに見る人に思わせるかというための所作なのです。

 

(引用者独白:かようなこと、ド素人の小生ごときが口にすれば如何あろう。冷笑されるに至ればまだマシな方、洟をも引っ掛けられることなく黙殺されるに相違あるまい。)

 

***

 

以下、余談にかかわる余録。

 

 

先に千宗室氏の言葉を借りつつ、「茶の湯と折形は<次元の高い精神の遊び>」であるとの旨を述べた。当ブログご愛読者様におかれては、ここに「遊び」なる語を持ち出すことに積極的な賛意をお示しいただけることと思う。白川静氏の論考に、この語を巡るまことに興味深い一節が見られるので併せてご紹介いたしておこう(「遊字論」、『文字逍遥』所収、平凡社)。

 

 

///(引用、はじめ)

 

遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。

・・・

中国における遊が形而上学的志向をみせているのに対して、わが国における「あそび」は芸能的風流(ふりゅう)として展開する。しかし遊の起原的形態には、両者に共通するところがあったようである。すなわちそれは神事に発し、祭式において展開する。・・・

「あそぶ」が神の行為を意味する語であったことは、のち貴人の行為が、すべて「遊ばす」という語で示されていることからも知られよう。音楽の酒宴など、貴人の行為が、すべて遊ばすということばで表現されるのは、そのような行為がもと、神に近い次元のものとして理解されていたからである。

・・・

(『論語・述而篇』に)「子曰はく、道に志し、徳に據り(より)、仁に依り、藝に遊ぶ」という語を録している。

・・・

文化の最も純粋な完成形態を「樂に成る」と音楽に求めた孔子は、人のありかたについても「藝に遊ぶ」ことに最高の地位を与えている。道も徳も仁も、すべてはその過程であり方法であるにすぎない。「藝に遊ぶ」ことに、その存在のすべての意味がかけられている。

 

///(引用、ここまで)

 

 

「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」とも言う。

 

「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん」、

 

寛きこころを以てかみと共に大いにお遊びあそばせ \(^o^)/