さてさて、ようやく本稿の主要関心事にたどり着いた。ここからは掛け蓬莱について。まづは『年中行事辞典』を見てみよう。

 

【蓬莱】

「東海中にあって神仙が住むという蓬莱山の形を、台の上に作った飾り物。平安時代には貴族の祝儀や酒宴の装飾用として用いられたが、室町ごろから正月の祝儀用として飾り、また取肴として賀客に出すようになった。これは上方また近畿の風俗であって、江戸では蓬莱の代わりに喰積が用いられた。・・・

蓬莱は小笠原流婚礼に用いる奈良蓬莱という物から発展したとの説があるように、床飾りと取肴の台を兼ねる点で、この両者は相似たものである。蓬莱の飾りは、普通には、三宝の上に白紙・歯朶・譲葉・昆布を敷き、米・榧・搗栗・穂俵・串柿・橙・柚子・蜜柑・野老・海老・梅干しなどを積む。鏡餅を飾るのに用いる食品と共通する物が多い。縁起物尽くしで・・・。

蓬莱の様式には種々のものがある。懸け蓬莱は床の間の壁などにつり下げるもの。組み蓬莱は堂上家で酒宴の際に用いられた三峰膳から新年の蓬莱飾りへ発達したもので、右に方丈、左に瀛州(えいしゅう)のさまを羹(あつもの)でこしらえたもの(方丈・瀛州は蓬莱とともに中国古伝説にある三つの神仙島で、・・・)。包み蓬莱は蓬莱の節物を紙で包み、水引をかけたもので、俗にお福包みという。・・・こうしたものを、近畿では蓬莱山と呼んでいるが、蓬莱様(さん)のつもりで使われているのかもしれない。」

 

 

続いて、お約束の手順に従い(?)国会図書館デジタルコレクションから。

 

・大江濤畝 編『新歳時記』,宝文館,明36.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/767907

 

同書は季語を動植物・人事・衣食などに分類した一覧表であるが、器財の部に<蓬莱>に加え<掛蓬莱(包蓬莱←引用者註:小文字表記)>が挙げられている。

 

 

・現代俳句研究会 編『新纂俳句大全』春之部,資文堂,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1241787

 

ここには「掛蓬莱の尾のしだり尾を捌きけり」の一句が選ばれている。

 

 

・『雑俳誌』自31 号至34 号,雑俳江東連,昭和5-8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1128772

 

4コマ目・昭和7年3月刊誌に「のんびりと掛け蓬莱に朝の蜘蛛」なる一句を載せる。

 

 

・山本三生 編『俳諧歳時記』新年,改造社,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1213577

 

【蓬莱】の項にて

「・・・懸蓬莱は蓬莱の節物を集めて掛け下ぐるもの、組蓬莱は昔堂上家の宴に三峰膳とて、中に蓬莱、右に方丈、左に瀛州を羹にて作りかたどりしもの。包蓬莱は、蓬莱の節物を紙で包み、水引にて結びたるもの、俗に福包とも云ふ。」との説明がなされた上で、季語<掛蓬莱>を詠み込んだ句は「しだり尾を畳にひくや掛蓬莱」など計4点が挙げられている。

 

 

・井岡大輔 著『一簣 : 咀芳随録』,井岡大輔,1939. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1454521

 

【掛蓬莱、包蓬莱】の項に

「蓬莱飾に用ふる節物を集めて、床柱などに掛け下ぐるものを「掛蓬莱」といひ、蓬莱の節物を紙に包み、水引にて結びたるものを「包蓬莱」、又は俗に「福包」と称する。」とある。

<掛蓬莱>を含む掲載句は「しだり尾の早からび居り掛蓬莱」。

 

 

以上5点の資料に記されている<掛/懸蓬莱>の説明文中に日蔭蔓の文字は見られぬが、少なくとも「しだり尾」と組み合わせて詠まれている3点の句が伝える景色は、カズラの存在を謳っていると断じてよかろう。

一方、次なる4点の資料に載る<掛/懸蓬莱>は、明らかに日蔭蔓を伴っていたことを告げている。

 

・『流行』(25),流行社,1901-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1496187

 

【懸け蓬莱】の項に

「新年床飾りの懸蓬莱は、維新前は古式を尊ぶ家にては随分用ゐたるも、維新後頓と(とんと)廃りたるに、・・・今行はるゝ懸蓬莱の造り方は、今年藁に稲穂を添へて、根本を括りたる上に、白紙にて折りたる鶴亀を附け、其折亀の中に造り物の松竹梅を挿(はさ)み、紅白の水引飾となしたるなり。

是は何頃より初めたるものか。元来上代式にては、元旦に用ふる三種飾なるものと、正月七日に用ふる卯杖というものありて、三種飾りは同じく穂付きの懸藁の根本を紅白重ねの紙にて、茶壺の口を包む如くして、水引にて膝折りに結び(引用者註:両輪結びのことか?)、其下へ曲玉を数々糸に貫ぬきて下げ、其下には神鏡を下げ、鏡の後より紅絹を膝折りに結びて程よく下げ、別に宝剣を紅絹両口の袋に入れて袋の両端を垂れ、これを神鏡と曲玉の間に当る所の背部へ横に、紅絹の弶[弓偏+京:わな、罠]紐にて下ぐるなり。又卯杖は同じく穂付きの懸藁に蔭蘿(引用者註:原文ママ、2文字にかけて“ひかげかづら”とルビあり)と、藪柑子を添へ、柳にて削りたる杖と共に根元を括りて、式(かた)の如く紅白の紙にて包み、金銀水引にて膝折に結び何れも床の間の掛物釘へ懸るなり。此卯杖、三種飾りの有職を根元として、中興懸蓬莱と號(なづ)けて一種の物を造り創めしならん。・・・」とあり。

 

当該記事に添えられている絵図(※25号‐17頁(20コマ目)、要利用登録)は日蔭蔓を伴うものではないので、引用前段にある「今行はるゝ懸蓬莱」の姿であるようだ(ここに用いられている折形が鶴亀に見えるか否か、意見は分かれようけれど・・・)。日蔭蔓を採り入れた「中興懸蓬莱」が描かれていないのはすこぶる残念であるが、今日多く見られる形状の掛け蓬莱誕生の、そのごく初期の証言のひとつと言うことができるのではなかろうかと思う。1901年(明治34年)12月号。

 

無論、『流行』誌の性格を見極めねばならぬ上、たった一つの雑誌記事に基づいて何ごとかを断定的に申し述べることなどは出来ぬワケで、例えば先にも見た『東京年中行事』は後年、1911年の刊であるけれど、【蓬莱】の項に<掛/懸蓬莱>の語は記されていない。同項の記述は「蓬莱は又の名を喰積と云ひ、供饗(くぎょう)と云って、形は三方に似て四方に穴のある台の四方に白紙を敷き四隅へは裏白譲葉を出して此上に白米を盛り、中央の橙には水引で結へた松の小枝を立てて、其側に伊勢海老を立てかけて置き、・・・客にすすめて新年を祝ふ心を表はすので有る。素(もと)より食へば食はれるもので有ることから喰積と云ふので有らうが、多くは之に手をつけるものなく、只相対して礼をするのみで有る。・・・」と述べた後、「俳諧歳時記栞草には『今俗誤りて蓬莱台を喰積といへる故に、俳諧者流も同物と心得たるもの多し。むかし食積と唱へしは今の重詰の類にて賀客饗応の具なれば・・・』とある。昔は実際さうで有ったかも知れぬ。」と続く(因みに、ここで言う『俳諧歳時記栞草』が馬琴編のそれであるなら、引用されし一文は当方手許の岩波文庫版には認められない)。

 

<< 図5 >>『東京年中行事』(既出・国会図書館デジタルコレクション)より

 

 

・『大日本山林会報』(406),大日本山林会事務所,1916-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2370267

 

所収の論考【ヒカゲノカヅラに就て】に「今出雲の大社博物館に掛蓬莱と称するものを陳列しあり。就て視るに日蔭蔓にして長く下垂し、賀茂の神山より採集したるものなりと云ふ。」とある。

 

 

・平岡耕 著『簡明を主とした礼法の栞』,平岡耕,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1450162

 

【附録:正月の床飾りに就て】に以下の一節。

「掛け蓬莱は紙で蓬莱を折つて真中に稲穂を垂し蓬莱の後に日蔭の葛を釣して逆に掛けます。それで蓬莱とは申迄もなく神仙道を得た、不老不死の人のみが居て・・・掛蓬莱の蓬莱は之れから引用されたものである事は勿論首肯(うなづき)得る事でありまして、葛も稲も全部が逆に掛られているのは一には上帝の恵を垂れ給ふ事を表し又一には重い方が下になると云ふ、物事の理に従つてなされたことだろうと思はれるのであります。・・・」。

 

(直接の関わりは無いが、中国料理店にて、しばしば「福」の文字をしたためた色紙などが逆さまに吊されているさまを目にすることがあろう。これも福は天からもたらされることを寿いでの次第と承る。)

 

 

・岡不崩 著『万葉集草木考』第1巻,建設社,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1214256(引用者註:書誌情報の出版年月欄は昭和7年9月となっているが、奥付には昭和7年3月20日発行との貼紙がある。)

 

【第三編 日蔭蔓考】に

「今も掛け蓬莱とて、ヒカゲノカツラ四五尺なるもの、薬玉に似たる物作り、京都より昔のちなみにより、旧将軍家へ、年々納めたる物を、仕用後予はいつも拝領して一ヶ月あまりもながめしことあり。」との割り書き(割注)がなされている。

 

 

この他の主要文献については以下の如し。

 

『古事類苑』(記紀以降江戸末までの諸文献から主立った参照箇所を抽出し、項目別に分類整理したもの)【蓬莱】項に引用されている記事に<掛/懸蓬莱>の文字は見当たらぬようだが、以下、引用されている書名とその刊行・成立年などを簡単に記すと共に、<蓬莱>、<喰積>の語すら書き留められていないものについては、その旨を付記しておく。

 

 

《故實拾要》篠崎東海(1686-1739/40?)による故実の解説書。成立年不詳。

「堂上諸家中、正月三方の飾には、熨計(引用者註:熨斗)蚫、昆布、此の二種を切て硯蓋と云う物に盛る。白箸一膳を添て三方に之を載せる也。年始客對の時、件の三方を主人の前に備ふ。・・・硯蓋とは硯筥の打かぶせの如き蓋なる物也。・・・凡家には喰積の台とて、種々の物を盛り飾る也。此の如き物、堂上には聊も之れ無き事也。・・・」とあり、ここに<蓬莱>の文字は見えない。

 

《増山の井(ぞうやまのい)》1663年刊、北村季吟による季語の解説書。

 

《秇苑日渉(げいえんにっしょう)》1807年刊、村瀬栲亭(1744-1818/1819?)

による随筆(?)。諸事についての考証が漢文で記されている。

 

《日次紀事(ひなみきじ)》黒川道祐(1623-1691)による年中行事解説書。成立年不詳(写本の序に「貞享二年乙丑夏五隺(引用者註:←この左1文字、[鶴]の左側のみ)山野節識」とある)。

 

《改正月令博物筌》文化年間刊、鳥飼洞斎(1721-1793)による季語の解説書。

「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」で見ることができるが

(https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a0774/bunko31_a0774_0001/bunko31_a0774_0001.pdf、<蓬莱>は30コマ目)、単なる季寄せの範囲を超える内容であるようだ。

 

《華實年浪草》天明年間刊、三余斎麁文による季語の解説書。

 

《日本歳時記》貞享5年刊、貝原好古の編録に叔父・貝原益軒が手を加えた歳時記。

 

《水戸歳時記》詳細不明、立原翠軒の著か?

 

《月令廣義》中国・明代の歳時記のようであるが、詳細不明。

 

《年中行事故實考》1742年成立、松平士竜による年中行事の解説書。

 

《煕朝樂事》詳細不明。中国・明時代(について)の書か?

 

《翁草》1791年刊、神沢杜口(1710-1795)による随筆。

 

《守貞漫稿(近世風俗誌)》喜田川守貞(1810-?)著、江戸後期における都市風俗の記録。【蓬莱】の項に

「古は正月のみの用に非ず。式正の具と云ふにも非ず。貴人の宴には唯だ臨時風流に之を製す。今も貴人の家には蓬莱の島台と云ふ。島台と云ふは洲濱形の台を云ふ也。・・・今俗は島台と蓬莱は二物とし、島台は婚席の飾とし、蓬莱は正月の具とし、其の製も別也。・・・今世は三都とも蓬莱同制なれども、京坂にては蓬莱と云ふ。或は俗に宝来の字を用ふるもあり。江戸にては蓬莱と云はず、喰積と云ふ。クヒツミと訓ず。・・・」

 

《内院年中行事》詳細不明。内院とは伊勢神宮(若しくは賀茂神社?)における斎王/斎院の常の御座所。「正月二日、夜に入り御取初の御盃事あり。・・・献上の調よう、白きはなびら(餅也)、福壽草、橘、榧などのやうなもの也。・・・此の時、昆布、鮑の御盃、御流を給ふなり。」の一節が採られているが、ここに<蓬莱>の語は用いられていない。なお、『広辞苑』に「取初(とりぞめ):朝廷および武家の年中行事の一。正月二日に、昆布・鮑・勝栗などを三方にのせて出し、盃事をした。」とある。

 

《後水尾院当時年中行事》後水尾天皇(1596-1680)による年中行事に関する記録。ここでも正月二日の条が引用されているが、やはり<蓬莱>の文字は見当たらない。

 

《嘉永年中行事》詳細不明。国会図書館デジタルコレクションにて『嘉永年中行事考証』なる書が公開されており、その【緒言】(明治21年と記されている)に「嘉永年間を以て起草し、彼の禁裏年中行事を基礎となし、或は古老に問ひ、或は記録に攷へ(引用者註:“考え”と読むのだと思う)、古今の沿革を校正し、以て一小冊を作れり。今之を嘉永年中行事と称す。」と記されている。書名は『考証』なれど、原文に句読点を朱書きで添えた程度のものか? 

上2点に同じく正月二日の記事「・・・先づとりそめの御盃供ず。其のやう、先づ御盃、次に三方ひとつに菱花びら、昆布、柏、かち栗、櫛柿、数の子、あめ、こせう等の、様々の物をとり入て・・・」が引かれている。<蓬莱>見当たらず。

 

《年中恆例記》冒頭に“広橋大納言兼秀卿記”とある。広橋兼秀(1506-1567)は戦国期の公家であるが、『続群書類従』にては<巻六百六十>として「第貳拾參輯下・武家部」に収められている(『総目録・書名索引・略解題』の巻を当たってみたが、書誌情報は得られなかった)。なお、ここでも引かれているのは正月二日条で「御取初在之、四方串柿、昆布、勝栗、餅、あめ、たはらこ、□□□□參を向はれ候也、御美女調進之」と見える。広橋家では三方ではなく、四方に脚の刳り(装飾を兼ねた手掛けの穴)が施されている台に載せて供されたようだ。<蓬莱>の語が記されておらぬことはさておき・・・、 なぬ? 御美女、これを調進す、って! 誰や、こんなん、書いたんは (^_-)

 

(↑ ここまで『古事類苑』掲載分)

 

 

さらに、江戸期の都市風俗を語るに不可欠の資料とされている『嬉遊笑覧』(1830年成立)にても、岩波文庫の索引で見る限り<蓬莱>の語は【算木餅】の項に「今正月の蓬莱の果子ども食ふ者なきやうになりしは、算木餅もおなじかるべし(蓬莱の果子など、今は食ふ者なきは侈り(おごり)たる也。是故に早春の果子に沙糖を煉て、ごまめ・かち栗・昆布・榧・ところ・柿・数の子迄、其形色を模したるなど有。)」とあるのみで、<掛/懸蓬莱>への言及はなされていない模様(上掲引用文も岩波文庫による)。

また、『古今要覧稿』にては、原書房による復刻版の索引に<蓬莱>、<喰積>の語すら存在しない(編者・屋代弘賢の死により、事業が完遂されなかったことに因るのかもしれぬが)。

季寄せの類では、当方手許の『増補 俳諧歳時記栞草』(1851年刊:曲亭(滝沢)馬琴編、岩波文庫)に【蓬莱飾】の項はあるものの、<掛/懸蓬莱>の語は記されていない。

既に見た通り『古事類苑』が参照する『守貞謾稿(近世風俗志)』にも<掛/懸蓬莱>の語は見当たらぬようだが、同書には「蓬莱図」が描かれている。この画はしばしば引用されているようなので今さらながらではあるが、喜田川季荘 編『守貞謾稿』巻26,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2592412 より。

 

<< 図6 >>

 

以上を総括するに、次のごとく述べることが許されようか。

先に見た通り、『日本年中行事辞典』に<蓬莱/喰積>は「室町ごろから正月の祝儀用として飾り、また取肴として賀客に出すようになった」とあるが、市井広く普及するに至るのは、庶民の暮らし向きにわづかながらも余裕の出始めた江戸中期以降のことではあるまいか(無論、公家また武家の社会では、同書が説く通り室町頃から行われていたであろうし、その際、婚礼など祝儀の折りの床飾りのさま(<奈良蓬莱>、<蓬莱台>)や<手掛け熨斗>などが参照されたであろうことに異を唱えるものではない)。

 

<< 図7 >>『類聚婚礼式』より<奈良蓬莱の図>:亀が松竹梅を背負う

 

そして、<掛/懸蓬莱>が登場するのは江戸後期に入ってからのこと。当初は食品を主要構成物とし(日蔭蔓などを用いず)、そこにせいぜい松竹梅を添える程度のものであったろうが、如何せん、蓬莱/喰い積みを吊し飾りに仕立てるのは決して容易な作業ではあるまい。そこで、実物を組み、吊り下げる形状の飾りはあまり普及することなきままながら、その姿を好もしく思うごく限られた人々の目を慰撫すべく、掛け軸に描いて愛でることも行われたようだ(後掲図参照)。

その一方で、このくにには古来、新春を彩るしつらえの具のひとつに卯杖・卯槌があった。卯杖・卯槌は除厄、蓬莱は招福と、元来、その性格を異にするものであることは疑いを容れぬであろう上、厄を払う前者は元旦から飾り付けるものでもなかったハズであるが、明治末~大正にかけての頃合いであろうか、カヅラ垂らして既に何のこっちゃらよー判らんようになっておった卯杖・卯槌と、見目麗しかれど拵えるんが厄介でかなわなんだ掛/懸蓬莱とは、手を相携えて偕老同穴一緒くた、今日見るような姿のものに変貌を遂げて広まるに至った。と、概ね、かような仮説を立てることができるのかと思う(ここまで見てきた限りにおいては、<掛/懸蓬莱>なる語が最初に書き留められたのは明治34年12月発行の『流行』誌。明治36年刊の大江濤畝編『新歳時記』がそれに続き、昭和に入れば季寄せの類をはじめ、さまざまな記録にも見られるようになる)。本稿冒頭に記した「掛け蓬莱は蓬莱山登山中の龍」というのは卯杖・卯槌と混同(混淆と云うべきか)したるがための言説に相違あるまいが(ついでながらに申さば、時折目にするであろう五色の緒や麻苧を下げたる掛け蓬莱も、卯槌の装飾に由来するのだと思う)、さりとて、謬見と断じてしまうのはチト気の毒でもあろうかと・・・(^_-)

 

 

さて、ここまで縷々ご託を並べて参ったが、最後に告白しておかねばなるまい。

今日、世間に行き交う掛け蓬莱の大半は日蔭蔓を纏っている、と言うより、日蔭蔓こそがその主要構成品目であるようにさえ目に映る。正直申して当方長らく、掛け蓬莱にヒカゲが用いられるようになったのは、ごくごく単純に、新年を迎えるに当たり長命を寿いでの次第と思っていたのであるが、さにあらざることが闡明された。無論、喰えもせんのに蓬莱を名乗り、何喰わぬ顔で主役然たる日蔭の存在(!?)に幾許かの疑念がなかったワケでも無いのだが、此度のお題投げかけなくんば、このように調べてみることも無かったであろう。無い無い尽くしの涯ながら、某御仁には深謝申し上げる次第である。

 

(すでに述べた通り、卯杖と卯槌、いづれが先にヒカゲを身に纏い始めたかを判ずるのは困難な模様であるが、『古事類苑』に見える源俊頼(1055-1129)の歌集《散木弃謌集(奇歌集)》からの引用歌「老らくの腰ふたへなる身なれども卯杖をつきて若菜をぞ摘む」には「七日、卯杖にあたりける日、常陸守経兼が許より若菜に添へて贈りける歌」との詞書きがある。暦については不案内ながら、初卯と7日の若菜摘みとはその日が近接し、同日に重なることもあったろう。所詮、愚蒙の戯れ言に過ぎぬけれど、この歌の行き交うその場に身を遷し、杖に伴う七草の緑がカヅラを招き寄せる景色を想ってみるのも一興かと思わぬでない。槌なれば、もとより三~五寸ばかりの小さな木片。そこに組み糸/緒を長く垂らすは装飾として似つかわしくあれども、幅広く嵩高いヒカゲとなれば、“添える”に留まらず“覆い隠してしまう”こととなりかねぬ。一方、杖にカヅラとあらば、老人→長寿との連想もはたらき、緑のもたらす弥栄が一層映えることだろう。倶利伽羅龍? 拙者、附会ト付キ合ハヌヲ宗ト致セリ ゴメンアソーセ~~~~ m(_ _)m 

 

ところで、日蔭蔓を伴わない掛け蓬莱とは一体どのようなシロモノだったのであろう。管見の限り、それを伝える資料は極めてとぼしく、掛け軸に描かれた画の二つ三つに過ぎぬ。下掲、鈴木其一の手になる『懸蓬莱図』は、その代表的なもの・・・でありながら、あまり広く知られてはおらぬようにも承る。長々と引用を連ねてきた愚稿であるが、実は、本図をより多くのお方様にご覧いただきたいというところにその趣旨があったのよン(^^) それを稿末に置いたのは、無論、意図あっての次第(^o^) 30秒で教養を獲ようとする御仁の欲呆けマナコにゃぁ、唯一無二の其一さまの画、あまりにもったいのーおすさかい \(^O^)/

 

<< 図8 >>https://paradjanov.biz/art/favorite_art/favorites_j/4569/ より

 

***

 

以下、附録。

ここまで見てきた幾つかの資料に、卯杖とゆかりある語として粥杖、祝棒、削り掛けといった言葉が挙げられていた。そこで思い出すのが次図(より**な画を目にした覚えがあるのだが、今のところ発掘に至らずじまい。あるいは愚生の妄想暴走したるかも・・・)。

 

<< 図9 >>『風俗画報』第四十九号誌(明治26年1月号)より【御本丸大奥年中行事正月七日御鏡餅引之図】

引用元の記事には「第一の御鏡餅の後と(あと)より春駒に見立てたる大摺子木に跨りたるハ・・・」とあり、件のナニは「春駒」であるらしい。暴れ馬は意の如くならぬものと承るが、春駒なる珍棒の果たして如意也哉不如意也哉・・・(^_^;)

ちなみに、『定本 江戸城大奥』(永島今四郎・太田贇雄 編、人物往来社)には次の如く見える。

 

【大奥の内幕 御鏡餅曳き】

「正月七日は人日にて此の日大奥に御鏡餅曳きの儀式あり・・・鏡の台は白木造りの三方にて、広さ一間四方高さ四尺もあるべし。・・・餅台には直径五尺ばかりなる鏡餅を載せ、その周辺には譲葉、橙を種々に飾り、平昆布、幣帛の類を長く切り下げ、榊の枝を台の四方に葺き下し或は注連を引き廻はすなど、総ての飾り付け神田祭に氏子の町々より曳出す山車を見たらんやうにし、・・・

頭には扇子の台に蝦子(えび)を結びて翳し、或は鯛形の赤烏帽子、味噌漉笊、熨斗、杓子などを戴き天狗、ヒヨツトコなどの仮面を額に横鬢に被り摺木(すりこぎ)に注連飾りしたるを股に曳きなどしつつ、蹣跚(まんさん)の中に拍子合せて廊下狭しと踊り来り去る面白さ、喧雑なる一条道、承塵(なげし)の塵も踊つて流石に宏壮無比の大奥も震動せん計りなり。・・・

部屋方、タモン(引用者註:?)なんどは公けに見物するを許されねども、廊下の障子内より窺き(のぞき)見る習ひなれば暫くして障子には一つ穴明き二つ穴明き、扨ては内より外の見ゆるのみか外より内の見え透く迄になるも可笑し。・・・」とさ。善哉、善哉 (*^_^*)