また一つ、面白い絵図に行き当たったのでご紹介申し上げようと思うのだが、その端緒も劣らず興味深いものとなろうから(万人にとって、と申すつもりはない)、まづはそちらをまとめておこう。なお、この稿は折形とはまったく無関係である。

 

折形ぎょーかいにては夙に名高い亥の子餅/玄猪餅であるが、善良なる老若男女から成る市民社会一般において、今日、この語に馴染みを持つお方様はどのくらいいらっしゃるのであろう。そこから更に茶道に関心を寄せる御仁の数を差し引くなら、おそらくは絶滅危惧の域を超え、もはや絶滅認定を受ける水準に留まるのではあるまいかと・・・。

 

先日来、チト用事があって正月行事にかかわることどもを調べているうち、次なる記述にふと目が留まった。

 

『年中行事図説』(柳田国男監修、岩崎美術社)より

 

「亥の子 ・・・春の亥の日に田へ降りた神が十月の亥の日に仕事を終つて家へ帰つてくるという。それを迎えるために餅をつくのがひろい地域にわたる習慣で亥の子餅と呼ぶ所が多い。餅をつかない家では牡丹餅をつくる。・・・」(下線は引用者)

 

玄猪の行事についてはこれまで幾度も、複数の資料に目を通してきたつもりであったのだが、この旨の記述にはまったく気付くこと無く素通りを続けてきたらしい。

さらに手近にあった他の資料を繙いてみれば、

 

『新撰増補 大日本年中行事大全』(日本庶民生活史料集成・第二十三巻)に

 

「・・・摂津国能勢郡木代村より・・・毎年亥子の餅を恒例として御調物(みつぎもの、引用者補註:宮中への献上品、後には幕府にも)とす。家の内の不潔(ふじょう)を清め別火をもつて餅米をたき小豆にまぜ、臼に入れて餅となす。其の色薄紅(うすくれない)なり。・・・」(一部表記を改変、以降も断りなく適宜に改めることがあろう)、

 

『日本年中行事辞典』(鈴木棠三、角川書店)に

 

「・・・近世は小豆を混ぜて薄赤色の餅をついたのが、後にはぼた餅を作るように変わった。」

 

といった記述にも出会う。

亥の子は当初、中国伝来の儀式として宮中において始められた無病息災・子孫繁栄を祈念する行事であったようだが、後には将軍手づから、平生直接に顔を合わせることのない配下の者に餅を配るという稀な機会ともなり、それなりの意義/重要性をもった行事と見なされていたとの旨の記録も残っている(以前、別稿にて触れたものと思う)。

 

民間においては収穫祝いとしての性格を濃厚に持つものと位置付けられてきたようであるが、お上の行事が伝播してきたものであるのか、あるいはもともと行われてきた農耕儀礼と習合し、何がしかの変容を来したものであるのか、当方ここで論ずる能を持たぬけれど、民俗学の泰斗・宮本常一はその論考「亥の子行事」(講談社学術文庫『民間歴』所収、1944年稿了)にて「民間における亥の子の行事と、宮廷におけるこの日の祭りはいちおう差が考えられるのである。」と綴っているほか、平山敏治郎の著書『歳時習俗考』(法政大学出版局、1984年)に「農家の収穫祝いとして重んぜられた亥の子も市中では格別の祝い日ではなくなった。」との記述も見えることを紹介しておこう。

 

生活様式の変遷に伴い、その存在意義を失った儀式/儀礼が執り行われなくなることは当然起こり得る次第であろう。さりながら、一方では餅をいただくという口福をもたらす機会を人々がみすみす手放すハズはなかろうとも思うゆえ、当方、かつては極めて大切にされてきた亥の子餅の風習が今日(ほとんど)消滅してしまっている事情を訝しんでいた。

 

(私の手許に存する資料のほとんどすべては前世紀の遺物であり、それ故、我がドタマん中も前世紀の汚物にまみれている。21世紀以降の歴史学の進展により、それまでに積み重ねられてきた民俗学的知見の何ほどのものが今日の糧となり、いかほどのものが棄却せらるるに至ったか、当方知るところなきことをここに明記しておかねばなるまい。その上で、)

 

今日、上に示した説が広く受け容れられている様子を見聞きすることはほとんどなかろうことを鑑みれば、亥の子餅を巡るこのような見方も既に淘汰されたものであるやもしれぬが、かつて時を区切る標(しるし)であったハズの秋の大切な行事が、今なお牡丹餅(おはぎ)に姿を変えて受け継がれているのだと知れば、何やら安堵を覚える(「個人の意見です」・・・もっとも、巷に溢れかえるすべての言説は個人の意見にほかならず、否、むしろ個人=自己ならまだマシな方で、おおよそのところは他人様の見解の上書きに過ぎなかったりするのだろうけれど・・・)。

 

さらに資料を手繰れば、1889年、「かつて幕府に仕え、見聞せしこと少なからざる」(自序より)市岡正一が著わした『徳川盛世録』(平凡社・東洋文庫)に「玄猪は・・・将軍大広間に出座、親ら(みずから)餅を賜う。・・・また民間にては牡丹餅などを製してこれを祝う。」とある一方、江戸期の風俗研究に欠かせぬ文献である『嬉遊笑覧』(岩波文庫)は『徒然草』や『文談抄』を引きつつ「ぼた餅は・・・按ずるに、ぼたとは肥えたるをいふ也。」とまとめ、項を改めて「玄猪は、・・・碁石のごとくしたる餅也。・・・将軍手づから碁石を持如くに指二つにはさみて諸臣に賜ふ。遠国に居て在京せぬ人には紙に包みて賜はる。・・・津の国能勢郡木代村は、・・・恒例にて毎年亥子餅を進らす(まいらす)。赤小豆を擣き(つき)まぜて、・・・是諸臣に賜ふ碁子(ごし)のごとき餅とは異なる歟。」と記し、両者の関連を説くことはない。

また、同じく江戸の風俗を伝える重要資料『近世風俗誌(守貞漫稿)』(岩波文庫)にても、玄猪については年中行事に関する巻に、牡丹餅については食類をまとめた巻の餅の項にそれぞれ記されており、関連の有無には触れていない。

 

最後にもう一点、『摂津名所図会 有馬郡・能勢郡』を見ておこう(1798年刊、同書は『大日本名所図会第1輯第6編摂津名所図会』として1919年に活字化されている。いづれも国会図書館デジタルコレクションで閲覧可)。

 

「御玄猪餅調貢:・・・毎歳十月に調貢し奉る。・・・応神天応の御代より、・・・長く御玄猪の供御を調貢すべき詔ありて、・・・」、

「能勢餅製造 当家の四壁に斎竹を立て、・・・其色薄紅なり。これ”ゐのこ”(原文では<いのこへん>、豚の右側を以ての一文字)の肉を表したるとぞ。・・・」

 

(なお、同じ『摂津名所図会』ながら、武庫川女子大学学術成果コレクションで見ることのできる1796年の刊本には、能勢餅を御所に献上する道中を描いた図が掲げられている。2019年10月16日時点)

 

今さら申すまでもなく、ものごとの起源や語源をめぐるハナシには「諸説あり」の註を付すことがお約束になっているが、春にはぼた餅、秋にはおはぎと称することが多いように見受ける、かの蠱惑の塊、由来からするとその名は季節を問わず牡丹でこそあらねばならぬと思わぬでもない。

 

(平安期・公家社会についての記述であり、本稿に直接の関連はないが、最近目に触れた吉田光邦氏による「京都では、季節の変化があって年中行事があるのではなく、年中行事が正確に行われてこそ、四季はめぐっていくのである。」との指摘(「『年中行事絵巻』考」、中央公論社「日本絵巻大成」・『年中行事絵巻』所収)も記憶に留めておく必要があろうと思い、ここに併せ記しおく)。