何ごとにつけ、後になって思い出すことどもが少なからず・・・(>_<;)
先の記事についても見落としがあった。
 
『清俗紀聞』・「贄儀束脩(しぎそくしゅう)包法」に関わることであるが、このくにでよく用いられている中包みの如き包みについて、『男重宝記』(初版は元禄6年(1693年))に次のような絵図(ここでは折文=手紙の上包みとして)が載っている。
まづ引くのは社会思想社・教養文庫版の図。
 
 
図中に記されている文言は次の通り(教養文庫による)。

表「此ごとくつゝむは上なり。上書合せ目へかゝらぬ様にするなり」

 「此<タ>(〆の符合は図版参照)うやまひなり。内に包み物など入は封の字なり」(手紙のみの場合は<タ>のような締めの印を、(他に)品物を封入しているときには<封>と記せ、との意か)

表「これ同輩へのつゝみ様なり」

 「封じ目さがりたるほど下輩なり」
 

ついでながら、国会図書館デジタルコレクションでは『男重宝記抜書』(文政9年(1826年))の次図を、
また、刊行年不明の刊本からチト様子を異にする下掲図をも見ることができる。
 
(いづれにせよ、これら図版にはチト疑問が・・・。)
 

以上、先の記事にて迂闊にも「あるいは『清俗紀聞』そのものに学んだのだろうか」と記していたので、少なくともこの文言は削除しておかねばならぬ、と、ただそれだけのご報告。

なお、蛇足ではあるが、この「贄儀束脩」の包み、絵図が(ある程度)精確に描かれているなら、正方形の用紙を以て折られているのだろうと思う(長方形でも可能ではあるが)。
無論、特段驚くような包み方ではなく、どこでも、誰でも思いつき得るものだと見る向きもあろうけれど、私は、
 
1.このくににおける折形の如き包みの工夫に、さほどの関心を寄せることなき人たちなら、四角形の辺と平行な折り線(水平/垂直)を以て物品を包装することが通例であり、対角線、あるいは四辺と平行でない斜めの軸を規準に包みを仕立てることは例外的なのではないか(例の如く、知らんけど・・・)
 
2.仮に斜めに物品を据えたとしても、仕上がった包みの正面は平板な長方形(正方形を含む)となることを好み、「贄儀束脩」や中包みに見る如く斜めの線が表面に現われぬよう整えるのではなかろうか(上に同じく・・・)
 
と、この2点において意外性を感じ、採り上げた次第である。
 
 
***
 
 
蛇に足が付くのなら、手をも伸ばしてみむことを。
 
ハナシが煩雑になるので先の記事にての言及を控えていたが、思い出すには時間を要する一方、忘れ去るのはいと早し。
この機会に卓袱/卓子(しっぽく)料理、普茶料理に関わる資料から、今少し箸紙の図版を眺めておこう。
 
・『卓子式』、天明4年(1784年)。人文学オープンデータ共同利用センター/国文学研究資料館の提供する日本古典籍データセットより。
「此卓子式は当時清人の式と長崎釈家の伝によりて何れの国にても調ふやうに記す」とあるので、基本的には日本の事情に添うよう、絵図も描かれているものと見てよいだろう。
 

「牙筯(げちょ) 箸は白紙にて包み紅唐紙にてまく(図に見える細い帯のことだろう) 福禄寿の字を切て付るなり」、「箸此のごとく包も有」とある。
 

・『料理通』、江戸の料亭、八百善の主人の著。ここに引くのはその第四篇からであるが、普茶・卓子料理の取材のため、京都・長崎を訪れて記したものという。同じく日本古典籍データセットを利用したが、ここには巻数の異なるものなど複数の同名資料が開示されている。これは文政8年(1825年)のもの(ID=200021800)。

「清人 普茶式」とあるので、これは中国における様子を描いた(つもりの)ものかもしれない。
 
 
一方、こちらは「長崎丸山において清客卓子料理を催す図」。
 
 
 
さて、最後にチト厄介な輩を紹介しておかねばならない。
 
・『普茶料理抄』、明和9年(1772年)。京都大学貴重資料デジタルアーカイブより(https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012372)。

冒頭に「卓子は中華の饗膳我朝長崎に其風形をうつし雅人の翫ひとなる事久し」とあり、他の絵図に描かれたしつらえからも日本における供され方を示したものと見てよいだろう(文中「翫ひ」は「味わい」と読むのであろうか)。
 
 
ここでは箸が縦方向(やや斜めになっているが)、しかも持つところを手前に向けて配されている(箸紙の襞の設けようが「←\ /→」「←/ \→」と鏡像の如く描かれているのは愛嬌としておこう。されど、食卓から少しく飛び出しているところに何らかの事情/意図があるのだろうか。なお、別途、後の頁に箸紙の図が示されている)。

 

ところで、このくにでは箸は横に据えるのを通例とするが、折形=包みのありよう(?)から見れば、折り返して設けた底部を手前(地)、開口部を上(天)に配するのが当たり前の姿。数少ない例外の一つ(唯一と言えば、また数日後に修正を迫られる次第となろう)が、専ら関西(の一部?)にて用いられている迎春用の祝い箸の包みであろう(下図は『日本の造形 折る、包む』、荒木真喜雄著、淡交社より)。

 
されど、繰り返すまでもなく、箸は本来、横に向けて食膳に供するものゆえ、実際に目にする景色は次の如くなる(以下、仮に、上:広域型、下:関西型としておこう)。
 
 
正月の祝い箸に名を記す習慣の起こり/意味合いについてはおそらく諸説あろうから、無益な(?)詮索には手を出さぬつもりであるが、広域型、関西型の2種が存在することについては、当方、次のように見る。
 
申すまでもなく、原形は折り返したところを底部とし開口部を上にもつ広域型であろう。
然るに、いざ箸を取り出そうとすると、自ずと包みをチトばかり右下方に傾ける次第となろうが、このとき、広域型では字頭も下を向くに至る。関西型は、その姿を嫌って生み出されたものなのではあるまいか、と(「正月早々、ドタマ下げとれんわい」とまで思ったかどうかは ??? としておこう)。
 
 
先に『普茶料理抄』にて開口部を手許に配した箸の包みが縦に据えられているさまを見たのだが、かような次第で(?)今のところ、関西型がこの方式を先例としたとは思えずにいる。
所詮、これとて論ずるに値する仮説であろうハズもないが、当方、ここまであれやこれやとひっくり返してきたのは、ただただこの事情を確認するためなのであった。ご多用中、長々とお付き合いくださったお方様には恐縮千万 m(_ _)m
 
さて、先の記事をご覧下さったさる御仁から、福井県小浜市の箸製造・卸会社「兵左衛門」さまのウェブ・サイトに「箸の文化と歴史」なる頁があることをご教示いただいた。その記事によると、14世紀末頃には箸紙が使われていたとのこと。残念ながら典拠が示されてはおらぬけれど。

その後、改めて手許の資料を眺めてみたところ、『日本料理法大全』(石井治兵衛著、川島四郎監修、新人物往来社)所収の「四条園部流・御嘉例年中行事:七月十五日」の項に「御箸紙包」とあることに気付いた。後の箇所に「極月二十日御煤払 承応壬辰年二十日改十三日に成る」と記されているので1652年の記録と見てよいのだろう(日付の読み替えについての詳細を知らず)。現下管見にて確認し得た中では、これが箸紙最初の例となる。
 
 

膳部の調え方、料理法などに関する資料は膨大な分量に及ぼうからさらなる探索は好古の士(近年では士女とするべきか)に委ねよう。すでに優れた報告も少なからずあろうことと思うけれど・・・。