シモ―ヌ・ヴェイユ③スペイン市民戦争 | あらかんスクラップブック

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60代の哀歓こもごも

シモ―ヌ・ヴェイユ、かれこれ30年もほったらかしていた。

でも、気になっている。 ブログで紹介するのは容易ではない。書けば書くほど、シモ―ヌ・ヴェイユから拒否される。

だから、本の紹介というより、生涯の軌跡をたどることにした。

計画的には書けない。

 

今回は、工場労働のあとから出発する。

工場労働から離れて7年経って、大学時代の師にあてて、このときのことを手紙に書いている。

(工場労働で)私は、工場で無名の大衆といっしょくたになっているうちに、他の人々の不幸が私の肉と魂とに入り込んできました。それまでの不幸の経験は、自分自身のものでしかなく、それも生物的(虚弱体質)なもので、さして重要なものではありませんでした。わたしは、あそこで生涯消えることのない奴隷の烙印を受けたのです。ローマ時代、奴隷が額に熱い鉄で烙印を押されたように、あれ以来、私はそういう奴隷のひとりであるとみなしてきました

 

奴隷というのは、なんの基本的権利ももたない人間のこと。 これまで知識人として、労働者(プロレタリアート)を哀れな人間として見下していた自分が、工場労働によって、自分こそがそもそも基本的人権をもたないということを身をもって知る。1930年当時、アメリカ、イギリス、そしてフランスの資本主義は、労働者に基本的人権を認めようとせず、組合のような組織など論外で、アカのレッテルを貼られたシモ―ヌ・ヴェイユは、工場労働を経験することでその人々と共に闘うことを漠然と思っていた。

でも、そのような甘い考えは、彼女の肉と魂に入り込んできた。

 

女工生活は、1年足らず。身も心もボロボロなシモ―ヌは、これも惨めなポルトガルの貧しい漁村で休暇を過ごした。

 

今の守護聖人のお祭り

 

この村で、漁民たちが守護聖人の祝日を祝う行列をみて、シモ―ヌは狼狽する。パリの工場労働者以上に食いつめている彼らが、毅然とした態度で、訪問者を礼儀正しく敬意をもって歓待してくれる。 聡明で貧困に打ちひしがれていない人びとをどう捉えればいいのか?困惑する。

これを、奴隷の自覚がないとか、共同体の力だとか、紋切り型で逃げることもできたが、彼女はこの矛盾、奴隷が威厳をもって生きているということを、スルーできなかった。

漁師の女たちはろうそくを持ち、列をなして小舟の周りをまわっていました。そして、ひじょうに古い聖歌を胸を引き裂かんばかりに悲しげに歌っていました。なにが歌われていたかはわかりません。このとき、わたしは、キリスト教とは、すぐれて奴隷たちの宗教であることを、そして奴隷たちは、とりわけわたしは、それに身を寄せないではおれないのだという確信を得たのでした。」(根をもつということ)

持ち前の観察力で、これは、信仰心が尊厳を支えているのだということと、上から目線が逆に、天を見上げる視線に変化する。

2000年近く前、イエス・キリストは、卑しいとされていた奴隷のような人々と仲間として親しくつきあい、30数年の生涯を人々の罪を背負って十字架上で死んだ。

村人たちは、イエスを通じて見えもしない神を熱狂的に崇拝しているから、その威厳が光を放っている。その光を感じることができるのは、彼女が、とことん工場労働と向き合ったからだ。

その後、半年ほどして静養先の漁村から去り、フランスのシェール県の農場で農民と働く。居心地がよかっただろうと思う、捕られられる前のイエスのように。

 

しかし、ヨーロッパでは、ファシストが台頭、ヒットラー、ムッソリーニ、フランスでも。スターリンは強制的な集団農場化をおこない、従わない農民たちを集団虐殺。 工場労働者や農民たちの抹殺を見過ごすことができなかった。

そのような情勢で、シモ―ヌ・ベイユがとった行動は、スペイン内戦に人民戦線の兵士として参加することだった。

1937年、スペイン内戦が勃発するやいなや、バルセロナに向かった。

シモ―ヌ・ヴェイユの兵士姿。コスプレみたいだね。

 

シモ―ヌの友人たちは、あの健康状態と不器用さでは、すぐに足手まといになり、まず生きて帰れないと思った。

これまで、ずっと戦争を阻止する運動に加わっていた平和主義者のシモ―ヌが、どうして戦争に参加するのか?ということも理解されなかった。

 

ほぼ10年近く前、高等師範学校のシモ―ヌの師であるアランは、ドイツと対峙していたフランス軍を撤退させるため、人権同盟という組織からフランス政府に和解の提案をした。ヒットラーに権力をもたせないための提案だったが、フランス政府は拒否した。 翌年、ヒットラー政権が誕生する。

授業中のアラン先生

 

シモ―ヌは、反戦の努力が実をもつことがなかったこと、それは自分自身が安全な場所にいた優柔不断な平和主義者だったからということを長年重荷に感じていた。

友人に書いた手紙。

1936年、パリにいました。戦争は好きではありません。ですが、戦争でわたしをぞっとさせるのは銃後にある者の状況です。いかに自制しようとも、心情的にこの戦争に参加しないわけにはいかない。つまり、毎日毎時、一方の勝利と他方の敗北を願わずにはいられないことを理解したとき、パリはじぶんにとって銃後なのだと自分に言い聞かせました。

(歴史・政治論集)

彼女が参加した部隊には女性も多かったが、戦況はすぐに悪化し、義勇軍は玉砕した。シモ―ヌは希望した前線に送られる前に、食事のための油鍋に足を突っ込んで大やけどを負い、滞在2か月でフランス本国に送還されたから、死なずにすんだ。それほどのド近視。

人殺しをしたいとは思っていなかったし、たとえ命じられても近視だから当たらないと考えていた。 この短い戦争体験で、正義を掲げる戦争が、すぐに変質し、兵士を殺人者に仕立て上げてるかを間近に知る。

合法的な政府を守るための民衆の武装蜂起といえど、戦場においては殺人や凌辱が、まるで狩りのようにあっけらかんと行われる。

戦争の強者は相手を人間とは思わない。弱者は、相手を偶像化する。

この間に思考はかよわない。一度戦争に陥れば、正義も思慮もなく、互いを軽蔑するだけである。

戦争も工場も、人間を尊厳の対象とはみなさず、強者は野蛮、弱者は卑屈。ジョージ・オーウェルがカタロニア讃歌で書いたことをわずか2か月でシモ―ヌ・ヴェイユは捉えた。

彼女は平和運動をやめた。マルクス主義も批判し、政治から遠ざかった。まだ、27歳。でも、それでも、イタリアの独裁政権の情報を得るためにイタリアに行ったのだよ。

そのイタリアで、キリスト教、美、詩などが、彼女を捉える。 重力と恩寵の、恩寵の世界に近づく。

イラストは、シモ―ヌ・ヴェイユの雑記帳にあったもの

 

シモ―ヌ・ヴェイユによれば、人間の奥には、自重によって、下へ下へと下降して他者を必要としない「重力」があり、気分は落ち込む。

それに比べて「恩寵」は、あえて他者を受け入れたいと思うこと。これは気分は高揚する。

彼女は「恩寵でないものは、すべて捨て去ること。しかし、恩寵は望んではいけない」という。

 

次は、恩寵について書こう…と思っている。

8月中には終わりたいね。 9月には、このブログをリニューアルしたい。

昨日、新しい水中ウォーキングを思いついて、「そうだ。ブログも」と思った。コーチが「それ、負荷は中くらいだけど動きはいいね」と褒めてくれた。 脚と手を同時に突き出して、大股で歩く。「ドスコイ」と名付けた。