師を選ぶこと
戦後の教育の根本は、人より点数がよいことで人より豊かな人生が約束されるというゼロサム発想だったと思う。
だから問題に対する思考の途中経過はともかく、答えが正しいかどうかが採点基準だったような気がする。
これは成人してビジネスに取り組むようになってからは困り果てた。なぜそう言えるのかという論理的思考法の訓練が甘かったせいだ。
小学校から中学では生徒と先生の間にある種の心の交流があった。高校に入るとそれも薄れ、国語や漢文の教師で哲学的な面白い授業もあったが、中には論理的に説明しないし分からせようともしない数学教師や英語を話せない教師が教育指導要領というテキストに従って、同じことを同じようにやる全くつまらない授業が多かった。
そこには教師の人格に触れて啓蒙されるなどということはあり様がなかった。
このような傾向はいまも更に助長されていると聞く。全く嘆かわしいことだが、それを与件として自らどうするかを考えていくことが必要だ。
一方で、さらなる高みを求めて、自分から師と仰ぐべき先生を探し続けることが必要だ。
教職者のモラルが著しく低下している傾向があって難しいけれども、中には高い能力の素晴らしい人格の先生もいるはずで、それこそ「求めよさらば与えられん」ではないか。
この言葉は裏を返せば「求めなければ何も得られない」ことを言っている。
師を選ぶことは学ぶ者にとっては生涯の重大事で、ダメ教師と心中してはいけない。
良い教師は見かけは苦く、ダメ教師は甘く無責任だ。そういう輩を反面教師という。