先日の113年前の明治43年に頂いた「前田青邨画伯からの手紙」の読み下しの続きです。
前半は
謹啓
いつもいつも長々と御厄介に相成 難有御厚禮申候
あまりに寵光を辱し候事 感謝之辞を不知候
私、十三日夜無事着京
目之廻る程多忙にて昨夜一先左記へ轉宿仕候
でした。
後半です。
都合にて昨日
より木村へ通ふ事に相
成可乍憚御放念被
下度候
尚乍末筆
御奥様へも宜敷御
鳳声之程願い上候
先は御礼迄申上候度
如 此に御坐候
草々
前田青邨
十二月十六日
新井様
侍史
都合にて昨日より木村へ通ふ事に相成可乍憚御放念被下度候
尚乍末筆御奥様へも宜敷御鳳声之程願い上候
先は御礼迄申上候度 如此に御坐候
早々
前田青邨
十二月十六日
新井様 侍史
都合にて昨日より木村へ通うことにありましたが、おそれながら心配しないでください。
尚、末筆ながら奥様へもよろしくお伝えください。
まずはお礼を申し上げたく手紙を送りました。
12月16日 前田青邨
相原様
「木村」は整体とか病院とかではないかと思われます。
前田青邨画伯だけでなく、当時の紅児会の方々は体の弱かった方が多かったようです。
安田靫彦画伯も明治42年肺結核の為、新井旅館で5か月間療養をされたり、廣瀬長江画伯も体が弱く、菱田春草画伯や今村紫紅画伯も30代で早逝されています。
そんなことから、「都合にて治療にあたる事となりましたが、心配しないで下さい」と書かれているのかと思います。
そして最後は「末筆ながら奥様へもよろしく」とつづり、お礼を告げられています。
前田青邨画伯は自ら「筆不精」と仰られており、安田靫彦画伯のように毎日のように手紙を書かれてはおりませんので、新井旅館に残る文人墨客の方の手紙の中では比較的少なく、こういった内容も貴重な資料になっています。
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