先日の113年前の明治43年に頂いた「前田青邨画伯からの手紙」の読み下しです。
まずは前半。
謹啓
いつもいつも長々と御厄
介に相成難有御厚
禮申候
あまりに寵
光を辱し候事感
謝之辞を不知候
私
十三日夜無事着京
目之廻る程多忙にて
昨夜一先左記へ轉
宿仕候
都合にて昨日
謹啓
いつもいつも長々と御厄介に相成 難有御厚禮申候
あまりに寵光を辱し候事 感謝之辞を不知候
私、十三日夜無事着京
目之廻る程多忙にて昨夜一先左記へ轉宿仕候
都合にて昨日・・・
前半部分はこんな内容です。
「いつもいつも長々と御厄介になってしまい、ありがたくお礼を申し上げます。
とまず述べられています。」
明治43年に新井旅館に長く逗留されていた御礼の手紙のようです。
新井旅館に逗留していた安田靫彦画伯からの「明治43年6月25日」の手紙の中に、「今日、前田青邨画伯が来修」と書かれているので、6月にも逗留されていましたが、12月にも長く逗留されていたようです。
「とても特別なご厚意をいただき、感謝の言葉も思い浮かびません。」
安田靫彦画伯や石井林響画伯、廣瀬長江画伯・小林古径画伯・石井林響画伯・今村紫紅画伯などが明治40年頃から新井旅館によく逗留され、療養されたり絵を描いたりしていました。
前田青邨画伯も新井旅館に来られると、いろいろと面倒を見てもらったようです。
そのお礼の言葉です。
「13日夜無事着京」
新井旅館から13日に戻ったのか、どこかほかに行かれて戻ったのかはここからは判断できませんが、おそらくもっと前にお邪魔していたのかと思います。
そしてその後かなり忙しくなってきたようです。
「目の廻るほどの忙しさで、昨夜ひとまず左記(喜多方)へ住まいを移しました」
紅児会などの作品出展などで忙しかったのでしょうか?喜多方へ転宿とあります。
明治43年6月26日の、新井旅館に滞在の前田青邨画伯から東京にいる相原寛太郎に宛てた手紙には、「昨日喜多村緑郎氏が来た。 早く帰修願う」といった手紙もありますので、喜多方とは新派の女形俳優・喜多村緑郎(初代)氏のお宅かと。
そして「都合にて昨日・・・」で次の文に続きますが、続きはまた後日。
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