昨日の「今村紫紅画伯からのハガキ」
読み下せましたでしょうか?
出発の節ハ御見送り難有御礼申上候 只今当地へ着 明日出航海上頗る心地よく航海ハ面白きもの御座候 余ハ何れ便ニ可申上候
明治33年、当時「紫紅会」という名前で絵画の研究会を開いていた安田靫彦のもとに「自分の名前を勝手に使うとは何事だ」と現れた今村紫紅画伯。
ただ、その場で意気投合した二人は長年に渡り拠点を近くに置き活動をします。
明治42年新井旅館での長期療養のあと静岡県沼津市に靫彦が移ると、そのすぐそばに引っ越したり、明治45年原三渓の援助を受けられるようになると、ともに小田原へ移住します。
その後、大正2年に靫彦は大磯に転居しますが、紫紅は下目黒に移転。
病弱の靫彦とは反対にいろいろと活発に活動をしていた紫紅。
大正3年に単身インドへ向かうため2月23日に新橋発の列車にて出発、26日神戸より乗船し門司へ。
新橋で送られたのか、沼津にて送られたのかは不明ですが、その際に新井旅館三代目相原寛太郎が見送りされたようです。
その時の御礼のハガキのようです。
約1か月の船の旅のあと、インド・シンガポール・ビルマなどで写生を行ってきたようです。
日本に戻った紫紅は、翌年大正4年日本美術院の資金調達の一環であった「東海道五十三次絵巻」を作成するため、横山大観・下村観山・小杉未醒・とともに東海道を歩き絵巻を作成。
その道中新井旅館にも立ち寄ります。
しかし翌年大正5年2月2日、紫紅画伯は東京目黒に新居を構えた日に倒れてしまいます。
病院で療養をしますが、2月14日には意識もなくなり、大正5年2月28日に逝去。
今日2月28日は、将来を有望視されていた日本画家 今村紫紅画伯の命日です。
今村紫紅画伯の前回記事→2018年2月28日の日記
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