明治・大正・昭和の時代の歌舞伎界を支えていたといっても過言ではない、

 

初代中村吉右衛門丈

 

修善寺を第二の故郷と言われるほど修善寺を愛して頂きました。

 

俳人高浜虚子さんの「虚子自伝」に

 

「吉右衛門が何かにつけて

「新井屋の姉さん、新井屋の姉さん」と言っていたことが耳に残っている。

其の事を新井の老婦人(新井旅館三代目女将)に聞いてみた。

老婦人は私に並んで「龍田の間」の中床に腰を掛けながら話した。

藤村という待合が日本橋にあった。

その待合に昔おつるさん(新井旅館三代目女将)がニコライの学校を卒業して間もなく

同じ客商売であるということから見習いにやられていた。

その藤村の女将さんというのは吉右衛門一家がひいきで、よく吉右衛門も遊びに来ていた。

女将さんは吉右衛門やおつるさんを引き連れて御詣りなどに出かけた。

その頃の吉右衛門は子供上がりだったので「吉ちゃん、吉ちゃん」と呼び、

吉右衛門はおつるさんを「新井屋の姉さん」と呼んでいた。」

 

という文章があります。

 

明治30年ころ、吉右衛門さんが12~3才の頃の話でしょうか?

 

明治41年、体調を少し崩した吉右衛門さんは藤村の女将さんの勧めもあり、

 

当時「養気館 新井」と呼ばれていた新井旅館 「霞の棟」に滞在します。

 

明治42年には新井旅館にて、

 

安田靫彦・小林古径・前田青邨・今村紫紅・石井林響・今村紫紅画伯などと知り合い、

 

いろいろな応援・協力を受けるようになります。

 

明治42年 新井旅館「桐の棟」にて、吉右衛門さんと安田靫彦・広瀬長江・石井林響画伯たち

 

明治43年、「霞の棟」に滞在中には「雪の棟」に滞在していた高浜虚子さんと会い、

 

その後高浜虚子さんの俳句の弟子となります。

 

その後新井旅館に滞在中だった元土佐藩士の政治家土方久元氏と出会い、

 

強いスポンサーとなっていただくと、その土方久元氏に俳号「秀山(しゅうざん)」を頂きます。

 

大正10年には市村座を脱退する際に大騒ぎとなり、4月ころ新井旅館で療養をされていました。

 

その年の6月に行う旗揚興業では「新しい文士先生の作品を演じたい。」

 

という願いがあり、新井旅館三代目相原寛太郎に話をしたところ、

 

「それでは私が里見弴先生を存じているから頼んであげましょう」

 

という話になり、里見弴さんに「新樹」という脚本を書いていただいた経緯があります。

 

戦時中には新井旅館に疎開していた吉右衛門さん。

 

昭和26年には文化勲章を受章します。

 

   文化勲章を受章後新井旅館に贈られた記念写真

 

修善寺、そして新井旅館をこよなく愛して頂いた吉右衛門さん、

 

昭和29年にお亡くなりになられました。

 

今日9月5日は初代中村吉右衛門さんの命日

 

秀山忌

 

です。

 

 

過去の秀山忌の記事もご覧ください→2016年9月5日の日記

 

 

 

 

 

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