受験は合格者と不合格者とに選別する儀式である。
機会は年齢・国籍などの条件を満たす全員に等しく与えられている。
よって塾とはそのような儀式で合格するために,予行演習を徹底的に行う場でもある。
誰が合格し誰が不合格になるのか,その観点において塾でも生徒を色分けする。
これは差別ではなく,区別・選別であり,社会や国家が発展する原動力の源泉にもなる。
社会においては親ガチャという言葉が誕生したように,生まれた家庭環境が既に不公平な状態で始まっているという見方があるものの,塾での出発点においては全員に等しい条件が保証されており,一種の勝負の世界にあってこれを利用する生徒は将来の合格に繋がり,それをないがしろにする生徒は不合格に繋がるというだけである。
もちろん塾に子供を通わせる親の最大かつ絶対の期待は,合格にあることは論を俟(ま)たない。
ここから先は経験論の話になる。
現場の経験が少ない教育評論家や外野の意見なんてどうでもいい。
机上の空論ではなく,現実に生徒の学力を増強し合格に繋げるにはどうすればいいのか,これが至上命題なのである。
教師がおだてたり褒め言葉をバンバン投げても,それで生徒が理想的に学力の向上を見せることは1割程である。
それでうまくいっても,せいぜい短期間のうちに終わるときがくる。
中長期的には,ほとんどの生徒が怠けたり,油断したり,堕落していく。
私にはそんな甘い先生に絶対にならないという矜持(きょうじ)がある。
私が担当する中学生の英語と社会のクラスでは,以下の3項目のうち2項目を満たせば,その生徒には優しく,しかし1項目以下の場合は厳しい態度で接している。
これもまた差別ではなく,区別・選別の類である。
なぜなら全ての生徒が2項目は満たせる条件だからである。
・宿題をやってくる。
・あらかじめ正答のわかっている復習テストや単語テストで満点を取る。
・北辰テストで偏差値70以上を挙げる。
そして,この3項目のうち2項目以上が継続できれば,県内トップ校の合格なんて朝飯前のはずである。
ひいては大学受験の場において早慶合格をも射止めるだろう。
月謝制の私塾なんだから,こういう空気がパワハラだなんだと言うのであれば,さっさとクラスを変えたり退塾したりするのも自由であるし,そもそも私のクラスを受講しないでもらいたい。
生ぬるいクラスでも成功できるのは,よほどの才能があるほんの一握りの生徒だけであり,これには遺伝的要因も見過ごせない。
しかるに凡才を集めて3人に1人の割合で早慶合格者の輩出を目指す私のクラスでは,決して甘い環境に堕することを許したりはしない。
私はあと2~3年で塾講師業を引退するが,私のキャリアの有終の美を飾ってくれる生徒との邂逅を切望する。