近代社会への大転換をめざした幕末期と今は「平成の幕末」と言ってよいぐらい、類似点は多い。
深刻な政治経済社会情況、とりわけ内憂外患をかかえているからだ。
なる程今日、維新と称するニューパーティ(党)も出現し人気を博している。
この幕末に、佐久間象山は、ペリー来航の前に鎖国による攘夷はもはや困難であることや、ヨーロッパから科学技術等の導入によって軍事力強化を打ち出していた。
これはアロー戦争やアヘン戦争による清国(中国)の悲惨な敗北から受けた教訓だったのだろう。
似ている。
彼は、一国の興亡は、倫理や大義名分では解決できず、冷厳なる「カ」の政治によるべきだと主張していた。
象山の理想とする代表格はピョートル大帝やナポレオンだったようだがそれも頷ける。
一方、横井小楠という人物は平和維持に努めたワシントンを理想と仰いでいたと聞く。
象山とは考え方や方法論には大きな差異がある。
小楠も象山と同様に海軍力強化を最優先の強化策としているが、何よりも大切なのは、「仁政(じんせい)」を実践することであるという。
私は、まずきめつけで敵をつくる心を戒めることや人類間普遍の倫理や秩序を追求するという自らの人間性に立脚する自省が大切なのだろうと解釈する。
その仁政を人々、特に政治家が行うようになれば外国は日本のその「仁風(じんぷう)」に服するようになり、やがては平和共存の関係をつくれるのだと説く。
理想主義すぎるか。
もっとも国民もまたそれを理科し粘り強く支持しなければ成り立つものではない。
しかし「仁」は儒学の基本となるもので、古くさいように一見思えるが、外に尖閣・竹島問題などを抱え、内には格差社会にあり、経済・拝金主義が幅を利かせる日本の課題克服の基本的な万病薬となり処方箋を見いだす手がかりになるのではないか。
維新、明治維新と呼ばれる一連の政治革命は戊辰戦争や西南戦争にみられるように武力による流血による体制変革であった。
これが維新の本質だ。
私は現下内外の国難情況下に、早期の安寧をもたらす参考例があるとすれば、それば「維新」というつかまえ方ではなく、言論により、自由と平等に代表される人権を守り、地方分権を訴えていった「自由民権運動」と呼ぶものの方が実にふさわしく思える。
自由民権思想と行動に学び、構造転換や例えば原発に依存しない体制(私はこれを超・原発依存社会と呼ぶ)変革運動にあてはめるが穏当かつ妥当かと思う。