雨季に入って蚊が多くなってきた今日この頃、みなさま、いかがお過ごしでしょうか。一昨年前は、この時期にデング熱が大流行したそうな。病院では連日、マラリアとデング熱で子どもやお年寄りが亡くなっている。ネッタイシマ蚊が媒介となり人から人へ感染する。今年も大流行の予感がして涙目。


 さて、今回も駄菓子屋のおばちゃんのお話。


 おばちゃんは英語も少々話せて、ラオス語もわかりやすいので、僕は休み時間におばちゃんとお話をしにたびたび通っています。

 いつもは、旅行や家族の他愛もない話をしているのですが、先日は、内戦時の辛い経験を話して聞かせてくれました。



 ヒロのらおす日記   ヒロのらおす日記
 子どもに大人気の駄菓子屋さん。  メ-タオ(お婆ちゃん)。内戦を経験

 品揃えが豊富。よく通ってます。    しています。元・県教育局の重鎮。

 『かつてラオスは日本の占領地域でした。第2次世界大戦の4年間、日本はラオスを占領。1945年、日本軍の後ろ盾によって、ルアンプラバン国王のシー・サワン・ウォンがラオスの独立を宣言しました。

 その後、すぐに政情が安定することはなく、1953年、王党派中立主義者共産党の間で闘争が始まり、数々の内戦や、アメリカとのベトナム戦争に巻き込まれ、多数の寺院が破壊されることとなりました。
 1957年、左派勢力パテト・ラオ(ラオス愛国戦線)に危機感をもつ右派勢力ネオ・ラオ・イサラ(自由ラオス戦線)は、中立派の王国政府首相プーマを排除し、1958年には、保守的で親米派のプイ・サナニコーン内閣をつくり、パテト・ラオ閣僚らを逮捕、投獄しました。
 こうして、サナニコン政府とパテト・ラオとの内戦が始まりました。パテト・ラオがゲリラ戦を再び始めると、ソ連がパテト・ラオを、アメリカが右派勢力を支援して、ラオスの内戦は東西の冷戦を反映した代理戦争の様相をしめすようになりました。

 1963年、内戦が再開。特に、ビエンチャン王党派とパテト・ラオとの戦闘は激しくなりました。
 パテト・ラオは、北ベトナム(ベトミン)と協力していたため、ベトナム戦争になると、アメリカは、ラオス東部のホーチミンルートの攻撃を始めました。1970年に激化
 その後、1974年4月、プーマを首班とする第3次連合政府が成立。しかし同年、ベトナムでサイゴンが陥落すると、大部分の王党派は、フランスへ亡命しました。
 1975年、カンボジアとベトナムにおける解放勢力の勝利で勢いを得たパテト・ラオは、全ラオスを制圧することとなりました。
 そして、同年に、全国人民代表会議が開催されて、王制の廃止、連合政府の解体、ラオス人民民主共和国の成立が宣言されました。プーマ前首相は、政府顧問に就任。実権はラオス人民革命党書記長で、首相に就任したカイソンが掌握。

 1975年以来、政府は企業を国営化し、私営企業は閉鎖されていましたが、1981年に経済的困難に直面し、政府は第1次5カ年計画を実施しましたが、共産主義政権下での不平不満は拡大し、1982年にはおよそ30万人のラオス人が母国から脱出したとみられるそうです。』(※
HP『アジアの国の歴史』参照・引用)

 1958年から1975年に及ぶ内戦。駄菓子屋のおばちゃんは、その頃まだ学生だったそうです。


 当時、パクセーに家族で暮らしていたおばちゃんは、日々激化していく内戦の恐ろしさに、家から出られず、市場へ行くこともままならない生活をしていたそうです。食べ物はできるだけ野山で山菜を採ってきて家族で分け合いました。

 学生であるにもかかわらず、学校へ行くことはできず、満足に教育を受けることもできない。フランス語を使えばいいのか、ラオス語を使えばいいのか、間違えればいつ裏切り者の烙印を押されるかわからない情勢。

 近所の人々が何派でどこの党員かもわからないので、信用できるのは家族だけ。夜は、窓から明かりが漏れないように布を張り付け、ろうそくには囲いをつけてできるだけ早く寝る。

 今日は誰が拘束されていったとか、誰が亡命したとか、そんな噂ばかりが飛び交う毎日。時には、突然姿を消す家族も。自分たちがどうすればいいのか、どうするべきかわからないまま、怯えていたそうです。


 やがて内戦が終わり、ようやく学校へ行けるようになりました。首都ビエンチャンの学校で勉強をした時には、勉強できることが嬉しくてたまらなかったそうです。


 まだ男性中心の社会の中で、おばちゃんは必死に勉強し必死に働いたそうです。そして、チャンパサック県教育局で役職を得るまでに上り詰めました。


 おばちゃんは、ラオスの近代歴史の“証人”です。


 ラオスは、政治経済的にまだ世界の支援を必要とする東南アジア最貧国です。

 しかし、イギリスの環境保護団体「Friends of the Earth」による『地球幸福度指数(HPI:The Happy Planet Index)』で、ラオスは世界ランク19位(2009年、※日本は75位)。

 ラオスの人々は内戦の苦しみからようやく解放され、今与えられている幸福をしっかり噛みしめて、笑いながら生きています。

 『微笑みの国・ラオス』には、もう二度と繰り返したくない辛い記憶が確かに残っているのです。


 戦後の日本にも確かにあったはずの幸福を感じる心。第二次世界大戦終結から67年。証人と言える貴重な存在が次々と失われていく。『微笑みの国・日本』になれる日がくるのだろうか。


 数字だけでは計りきれない幸福度。しかし、2006年の109位から19位まで急上昇しているラオスには“幸福を感じる力”がある。「与えられるものに感謝し」、「ささやかなことに幸せを見つけ」、「他と比較をしない」国民性。世界中からの支援も相まって、生活環境が次々と整えられてきているのだから、この幸福度の高さにも納得できるし、ラオスに住んでいて実際にそれらを感じることができる。


 現在、内戦終結から37年。30年後もこの“幸せを感じる力”を忘れないでいて欲しいと願うばかりである。