これが今回の目玉
詳細は記事や桜井茶臼山古墳のHPを見て貰うとして、ざっくりとした趣旨としては
「桜井茶臼山古墳には103枚の銅鏡が副葬されていた事が明らかになった」
と言う内容。
・・・まあ、古代日本史にあまり興味が無い人にとっては「何のこっちゃ」で終わってしまう話だが、この発見が実はヤマト王権が如何にして成立し、その当初どんな姿をしていたのかを解き明かす重大なヒントになると考えられている。「では何故そう言えるのか」を簡単にざっくりと説明するのがこの記事の趣旨
茶臼山古墳が示す最初期の王権
ヤマト王権の成立については基本的に3世紀中葉~4世紀とされているが、これは主に奈良盆地に集中する大型古墳の築造時期と、同エリアに存在する纏向遺跡と言う都市遺跡(この纒向に関しては、古事記・日本書紀<以下:記紀>において10代崇神~12代景行天皇までの3代が宮を置いたエリアとして語られている)の繁栄時期の推定時期と重なるというのが主な理由。当の茶臼山古墳もこの例外では無い。
更に言うと、実在したとすれば丁度この時期と考えられている第10代目の天皇である崇神天皇と言うのが、古事記・日本書紀においてその事績が詳細に記載される最初の天皇である事から、実は彼が初代なのではと言う考え方も支配的になりつつあり、古墳の種類の中で一番格式の高い前方後円墳の出現もこの頃である事などを総合しての説と言う背景もある。
・・・まあ、正直この説に関しては著者も支持する所と言うか、実際に卒論でこれについて書かせて貰った。系譜についての見解は随分異なるが、これ以前の考古資料の存在が確認されない以上成立時期については現状反論の出しようがない。
寧ろ問題なのは「この王権がどうやって成立し巨大化したのか」と言う点。空白の4世紀も含めてこれが本当に謎で、邪馬台国に関する中国に記述が266年を最後に完全に絶たれたかと思えばそれより約150年後に、突如として倭の高句麗遠征と言う形で、しかもいつの間にか日本列島の大部分を勢力下に治める巨大政権へと姿を変えて歴史の表舞台に再登壇する。この間日本列島で何があったのか。。。
ここからは個人的な見解を挟むが、21世紀に入って暫くしてこの「どうやって成立したのか⇒どう巨大化したのか」の2段階の疑問はある程度2つの説に絞って考えられると思っている。
則ち。。。
- 3世紀後半に奈良盆地の一豪族を起点とし、世代毎に段階を踏んで周囲の豪族を勢力下に組み込んでいった
- 3世紀後半に奈良盆地の有力豪族を盟主とした各地の諸豪族連合として成立しその時点で巨大勢力だった