選手時代から名門都大路走者大学を引っ張り続ける男、中本凌平。

学生期の数奇な出会いとそこから導かれた"ネオ都大路スタイル"

そんな穏やかで熱い名将の軌跡を追った。

 

  

 一章  2人飛び出し者


    我々覇桜学院OBと現役学生の混合で正式に記者部が発足して間も無く、記念すべき最初の取材が始まった。畏れ多くもその対象として我々が訪問したのは、駅伝王者界隈を代表する名門にして業界屈指のスピード軍団である都大路走者大学の陸上競技部監督の中本凌平さんだった。


    突然の訪問に対して中本監督は極めて冷静だった。元々中本監督は当校のOBである細田翔哉と何度か交流があり、覇桜杯の折は解説役を務めてくださった事もあるなど、何かと覇桜学院とは交流のある人物である。そのお陰もあったのか、監督は急な取材の申し入れを快諾して下さり、後日覇桜学院の遠征宿泊施設を兼ねた温泉宿にて時間を頂ける事になった。

 

 

 取材当日、我々は宿の足湯場にて監督と対面した。

 

取「本日はお忙しい中ありがとうございます。」

 

中「わたくし中本、取材にも全力対応でございます。これまでの全てをお話しするつもりでございます。」

 

 

取材だろうといつもと変わらぬ口調でそう意気込みを語ってくれた中本監督は、水の代わりに差し出したコーヒー牛乳を勢い良く飲み干した。「やはり1.2本では足りない」と悟ったスタッフが、監督の席に追加で2.3本のコーヒー牛乳を置いた。意気込みを口にした傍からこの旅館ならではのコーヒ牛乳の味に興味津々で取材どころではなさそうな監督の注意をこちらに戻すべく、我々は早々と本題を切り出した。

 

 

取「。。。えー、ではまず、中本監督が都大路走者大学へ進学された経緯と決め手について教えて頂けますか❓」

 

中「まずわたくし中本、中学時代までサッカー少年で、陸上は高校からなのでございます。」

 

 

開口一番から意外な過去が飛び出した。

 オリンピック出場も果たした天性のスピードは或いはこの頃に培われたのだろうか。そんな想像を他所に、話は続く



「部活には熱心に取り組んでいたのでございますが、勉強の方はさっぱりで落第寸前でございました。


しかしながら高校3年生の戦国高校駅伝にてメンバー争いの最後の1枠を見事に勝ち取りまして、世良月高校の5区を担当いたしました。そこでわたくしは中距離走のごとく飛ばしに飛ばしヘロヘロになりながら襷を繋いだのでございまして、勧誘に来ていた各大学の監督からはあれでは大学で長い距離に適応できないと声をかけられることはなかったのでございます。


ところが都大路走者大学の都大路出太男監督はそんなわたくしに声をかけてくださったのでございます。『君はスピードという素晴らしい素質を持っている。うちの大学でそれをとことん磨かないか?』わたくしは勉強の方で進学するのは厳しかったですゆえ、都大路走者大学陸上競技部への推薦入学を決めたのでございます。」



これが、最初に明かされた中本の素顔だった。


思わず「クスッ」と笑ってしまったのは、決して中本の語る過去の様が可笑しかったからではない。後にも言及するが、覇桜学院は前述のような中本個人との交流以前に浅からぬ関わりがある。その時から既に学院関係者の間での彼の評価は『実直者』で共通していた。『中高時代ならもしかするとそんな評価とは違う姿を見せるかも知れない』等と考えていたのだが全くそんな事は無かった。それが不意にも『中本さんらしい』と微笑まずにはいられなかったのである。



しかし、距離が飛躍的に伸びる大学長距離界に於いて、3000m以上になると途端にスピード一辺倒が顕著になる中本のスカウトは当時中々異質だった。如何に元々スピードランナーを養成するチームだったとは言え、5000m以下を走る機会はほぼないと言って良い。彼の言葉はまさに『駅伝偏重にならない選手』の育成を体現しているようであった。


とは言えそこは高校時代から世代随一と呼び声の高かったスピードの持ち主、距離は踏めずともスピード練習ならと思ってはいたのだが...



「入寮して練習に合流いたしますと、距離どころかスピード練習でもCちーむに着いていけないありさまでございました。さらには同級生にもスピードで敵わない状態でございましたが、監督からは最後にへばってたとしても、がむしゃらな気持ちで練習に食らいつけていれば必ず力がついてくるとあどばいすを貰いまして、1年生の秋頃にはAちーむに上がることができたのでございます。」



我々の思い込みに対してサラッと答える中本だったが、これもまた意外だったのは言うまでもない。そして回答は対校戦の体験談へと続く



「そして1年目から三大駅伝を経験いたしまして、2年目以降も勧誘時の方針通り、スピードに特化した練習を順調にこなしていったのでございます。しかしながら同級生の竹村には勝てない日々が続いたのでございます。」



我々はここに来て漸く今現在の中本凌平のルーツに辿り着く。Aチームを悉く平らげたその先に待っていた、この「竹村」と言う男だった。



「竹村には1度も勝ったことがございませんでした。一方の竹村は入学時から期待された選手でして、対校戦出場を目指してこの大学を選んだと後に語っておりました。対校戦のテレビ中継も高校時代から見ておりこのレースにかけていたそうでございます。


かたやわたくしは対校戦の存在すら知らず、勧誘されただけの理由で都大路走者大に入学した選手でございました。


対校戦の3年生枠を賭けた選考レースにも他の記録会と同じような気持ちで臨んでおりました。そしてその選考会当日の話でございます。


わたくしはいつも通り臨んでおりましたため、りらっくすできていたのか、この日は非常に調子が良かったのでございます。


一方の竹村は対校戦出場への気負いからか本来の走りではございませんでした。その結果、わたくしが初めて竹村に勝利し、対校戦に出場することとなったのでございます。」


 


後から談笑の延長上で聞いたことだが、この時まで中本は対校戦へ出場する気は全く無く、単に「最大のライバルとの直接対決の場」として認識していたと言う。また、『リラックスしていた』と表現しつつも選手間対決でここまで意識した相手というのも、後にも先にも竹村だけだったと言う。


もしかすると、この時点では竹村を打ち負かす事を想定していなかったのかも知れない。それがあろうことか先着し、対校戦を自分が走る事になろうとは。この時の話をする中本の表情からは、心なしか複雑そうな心境が垣間見えるようだった。



「竹村は対校戦メンバー発表の最中にも賭けた大号泣しておりました。そこでわたくしは人生で初めて誰かのために走ろうと思ったのでございます。それ以来、わたくしは対校戦本番まで過去の対校戦の録画を見返したり、他の大学の選手を研究しておりました。竹村の分も対校戦で活躍すると心に決めていたのでございます。」



実直ながらどちらかと言えば1人で猛進するタイプだった中本、今でこそ穏やかで協調性にも富む彼であったが、恐らくその志が初めて芽生えたのもこの時だったのだろう。


当時の中本の動きは迅速だった。

それまで見向きもしなかった対校戦に対してまるで闘志を燃やしていることを内外にアピールするかの如く、各有力校の元へ赴いては合同練習を持ち掛けてみる等、かなり奇抜な強化方針を実行していた。中には断る大学もあったそうだが、快諾してくれる大学も相当数だった。


本来この行為は外部の強豪と質の高い練習ができるというメリットばかりではなく、他大学に対校戦のカードを1枚開かすと言うデメリットも内在した、言うなれば『諸刃の剣』だった。増して参加をさせる側はいつもと変わらぬ光景に招き入れる訳だから如何様にも隠し方があるものだが、送り込む側は中本1人であるため必然的に彼が対校戦の手札であることを公開する事になる。


それを承知の上で他大学に飛び込む姿勢は、当時の都大路走者大学の1部を戦う上での気概を見せつける上で十分な効果があった。




そうして、中本は遂に対校戦の内容へと話を進めていった...