移民社会・・・・
私は否定派です。建築の社会に居るもので、彼らと共にの仕事
はごめん被りたい。
建築も仲間同士の連帯で多く成り立っているのですが、言葉の
通じない彼らとは、連帯意識が遠のくのです。
例えば一服、一休みが相容れない。
彼らは彼らで繋がっており、多く彼らも日本語を早くマスター
しようという努力もしない。
髭モジャでガタイが大きいと、その威圧感に気分が悪くなって
しまうのだ。
ホームセンターでたまたま隣り合って商品を見比べていると、
臭いのだ。
一生懸命仕事に精を出しているのだろうは解るが、お風呂に
入る、という仕組みが無いのか、シヤワーだけで済ますのか、
それともそれさえもやらないのか、解らないが匂いが漂って
来る、悪寒でしかない。
兎に角、首都圏の建築の世界に多く外国人が携わっている
ために、辟易の連続である。
日本に呼ばなければ企業がやって行けない、というのである
ならば、政治の無策や日本国自体が歪んでいる証拠なのである。
その歪みを是正する事が出来ない無為無策な政治経済ならば、
それを取り替える必要がある。
日本人でも精神年齢の幼き若者たちや年寄りたちでも、車
からのポイ捨ては行ってしまう、特に豪華な車を運転している
者たちに限って却ってポイ捨てをしたりするのだ。
自分の車が汚れるのを嫌うからだ。
ましてや若い外国人たちである、ポイ捨てが、ミットも無い
事だとはつゆほども思っていない。
そういう人と共生など、ごめんである。
「共生」というのは、仲間として初めて成り立つものだ。
町内会での仲間でも無い、仕事での仲間でも無い、それでは
協力し合って建物を作り上げる、という連帯感は全く生まれ
ない。
昔、日本人なのですが津軽弁を喋る人たちが数人居た。
お茶の席で、彼らが話しているのを聞いても、何のことやら
さっぱりわからなかった、が、私は「二カ国語が喋れていいね」
と、皮肉交じりに笑って言った。
今、外国人にして然りである。
どうにも「よそ者」という感からは逃れられない。
従って、それだけ運命共同体には成り難いのだ。
外国人相手に迷惑を掛けないようにはできる、が、仲間と
するには相当に長い年月を要す。
だから、日本人に、日本社会に「馴染もう」とする人であれば
「共生」が永く掛かろうとも無いではない。
しかしお金目当てしか考えてはいない外国人では無駄、無理、
であるから、いらない。
そういう人を「日本流に」するのは「暖簾に腕押し」である。
彼らは、仕事が無くなれば政府に税金を使ってと救いを求める。