司馬遼太郎先生と街道をゆく 23

 

湖西のみち

 

朽木の興聖寺

 

その朝貢使たちは

敦賀に上陸して湖北の木ノ本あたりから湖東平野を通ったとおもわれるが

ときにはこの湖東の朽木谷の隠れ道をーーこのほうが距離的には京に近いためにーー通ったことがあるにちがいない。

 

渤海人は唐冠をかぶり

唐服を着ていたとおもわれるが

その言語は中国語ではなく

日本語と同じ語族で

ワタシハニホンへユキマス

という語順である。

 

渤海の使者のことはさておき

市場から街道をすこし南下すると

岩瀬とという在所がある。

 

かって筆者がこの街道を京都から北上して花折峠ごえで来たとき

この岩瀬の街道筋からちょっと山坂をのぼったところに古い寺があるときいたので

いってみたことがある。

花折峠 国道367号

 

曹洞宗興聖寺をみたのは

そのときがはじめてであった。

 

その坂を

この日ものぼった。

 

坂は老いた杉のために陽ががわずかに射し

苔のにおいがしたのをおぼえているが

この日は足もとが暗い。

 

のぼると

山を背負って広い境内がある。

 

かって朽木氏の檀那寺で

むかしは近江における曹洞宗の巨刹としてさかえたらしいが

いまは本堂と庫裏それに鐘楼といったものがおもな建造物であるにすぎない。

 

以前

ここへきたとき

この寺の境内につづく一角に五百坪ほどの草っ原があり

そこに一群の岩石がちらばっているのをみて奇異におもい

(ひょっとすると

ここは足利義晴の流寓地だったのではないか)と

突き飛ばされるような衝撃を感じたことがある。

室町幕府12代将軍 足利義晴

 

義晴(千五百十一ー五〇)は足利将軍の第一二代で

かれの時代は幕府などあってなきがごとく

京の治安はみだれ

無頼の者が横行し

義晴もその管領の細川氏に圧迫され

ほとんど身一つで京を逃げ出してこの朽木谷に身をひそめたというが

その潜居の場所がこの興聖寺だったのであろう。

 

義晴はそのとき憂さばらしにこの枯山水の庭園をつくったにちがいない。

 

私が最初にこの石組みをみたとき

村の子供十人ばかりが石のかげにかくれたりして

いい遊び場所になっていた。

 

山から降りてきた村の人に

「これは庭でしょう」ときくと

「ハイ・ハイ・」と

答えてくれて

くぼう様のお庭です

と教えてくれた。

・・・・・・・・・・・・・

荒れて子供の遊び場所になっているのがなんともうれしく

室町末期の将軍の荒涼たる生涯をしのぶのにこれほどふさわしい光景はないだろうとおもった。

・・・・・・・・・・・・・・

 

この部分の表現はまさしく司馬流の歴史認識です。

 

(掌 たなごころ)手で歴史に触れるという

いわゆる「司馬史観」です。

 

むろん

観光という自然破壊のエネルギイーはこの朽木谷までおよんでおらず

やってくる観光客もいない。

r_22.gif" title="人気ブログランキング">
人気ブログランキング