来年は明治維新から150年だそうですが、幕末の豪傑、山岡鉄舟の死に際の見事さは・・・聞く度に心が洗われます。

(187センチ 120キロ 類まれな大男)

考えてみれば、150年前の日本人の気力は、いまのわれわれとは懸絶していたのである。

山岡鉄舟の死「胃がん)は、明治21年7月19日午前9時15分(享年53才)ですが、50歳ぐらいから体の異常を感じていたようで「俺は若い時分から、暴飲暴食で通してきたから、その咎めが今頃出てきたんだ」と達観したように認めていたようです。

なにしろ””異常な暴飲暴食で酒7升,饅頭108個、ゆで卵97個などの数々の記録があります。

!!このひとはこの旺盛な食欲にくわえて底知れぬ体力と、自分でも、持て余すほどの気力を備えた古今無双の達人です。

剣道の達人

書道の達人

禅道の達人

また生涯をかけて究めた剣の道は、「一刀流十正適伝無刀流開祖山岡鉄太郎」と称し、やがて流儀の称号を「一刀流正伝無刀流」と称し後世に遺す。

明治の山岡鉄舟は、剣・禅・書の人であったと同時に、天皇側近の人でもあった。

侍従として同僚でもあった高島智之助(陸軍大臣・枢密顧問官)は、鉄舟を評して「誠忠無二}の人であった、と語っている。

明治21年7月22日、鉄舟が眠る棺は宮城前で十分間停止した・・・・・・鉄舟と天皇の最後の別れであった。

明治天皇は高殿から棺を目送したという。

これは天皇自らの意思であったことだろう。

また天皇から金二千円の祭費料が下賜された。

最初の帝国議会における衆議院議員の歳費(年額)が800円の時代である。大金であった。

剣豪小説家として名高い「津本陽」の小説に、鉄舟と天皇をめぐるエピソードが次のように紹介されている。

ある日天皇が酒を飲んだうえで、鉄舟に座り相撲を挑んだ・・・・鉄舟はピクリとも動かない。・・・・・怒ったた天皇がなぐりかかったが、鉄舟に身をかわされ、自ら転倒して手を擦りむいた。

同僚の侍従は驚いて、詫びることをすすめるのであるが、鉄舟は厳然として以下のように述べる。

「天皇と臣下が相撲をするというのは、このうえもない不倫である。

それゆえ、私はどうしても倒れるわけにはゆかなかった。

それに、あのときわざと倒れたなら、私は君意迎合する佞人となる。

・・・・・私が身をかわしたのがいけないといわれるかもしれぬ。

しかし陛下がお酔いなされたあげく、拳で臣下の眼玉を砕いたとなれば、陛下は古今稀な暴君と呼ばれ給う事にもなりかねぬ」、

それでは天皇は酔いがさめたあとで、後悔することになるのではないか。

剛健廉直 

鉄舟の人となりを言い表した言葉である。