2023年7月29日(土)
今日は母とのお別れの日。
おそらく僕は人生で1番泣いたと思います。
振り返ること、2022年の頭に母親の卵巣癌が発覚し、その後母は大変な治療にも耐えながら、弱音は一切吐かず、ずっと病と闘ってきました。
姉達と共に母を励まし、途中経過が良かったこともありましたが、最終的には悪性の腫瘍を除去し切れず、ドクターから手術と治療はもう出来ないと、だいたいの余命までを告げられたのは今年の5月の半ば。
僕は絶対に後悔したくないからと、仕事を変えてでも早い段階で東京へ向かいたいと姉に涙ながらにお願いをしました。
でも僕の判断は間違っていませんでした。
石垣島でこれからも頑張ると話していた矢先だったし、心配性の母親は私の為に仕事を変えたと思い込んでまた絶対に心配してしまうから、そこだけは言わないことにしようということになりましたが、最後の約1ヶ月弱は僕は休みの度に母親に会いに行っていました。
もしかしたら最後の方は会話が出来ていないだけてバレていたのかもしれませんが、それでも母親は「私が最後だから会いに来てくれたのかな」と凄く喜んでいたよということを姉から聞いて、自分もめちゃくちゃ嬉しかったことを鮮明に覚えています。
まだ7月の頭でなんとか話が出来る状態の時に、母親から集合が掛かり、家族6人が集まって、事前に準備をしていた父と子供達に向けてのメッセージをきちんと母から届けられたのも、自分が東京に来ていたから出来た訳で、そこは本当に良かったなって思っています。
母親は昔から股関節が悪く、何度も手術をしていたのですが、数年前に自宅で自分の愛犬ファンキーをシャンプーしていた最中に、股関節が脱臼してしまい、身動きが取れない中、実家を出発したばかりの自分に這いつくばりながら電話を掛けに行き、なんとか救急車を呼んで助かったという出来事がありました。
そんなことがあったからか、母親からの最後のボイスメッセージには、姉達への看病への感謝と共に、自分に対しては「振り返れば大変な時にはいつもHITOYAがいました、本当に感謝をしています」と残してくれていました。
母が自宅に帰ってからは、必ず姉の誰かが母を看るようにしていたのですが、それでも母親の本当の最後を見送ることになったのは、この僕でした。
しかも自分が実家からでも仕事へ行けると言って急遽姉と変わった7月25日。
日付が変わった深夜に、母は息を引き取りました。
やはりそういう意味でも、母親は最後は自分を選んだのかなって、物凄く思いましたね。
特に22歳で家を出てからホント沢山心配を掛けてきましたが、母はいつも自分のことを気に掛けてくれて、どんな自分であっても優しく受け入れてくれて、そして沢山助けてもらいました。
だからこそこれからは沢山親孝行をしていきたいと思っていたし、自分なんかは姉達に比べたら、ホント何も出来なかったなってずっと思っていたんです。
もっと沢山お話しがしたかった。
福岡、大阪、京都にも来てくれたように、石垣島もじっくり案内がしたかったです。
【子ども達から母への想い】
いつも思いやりがあふれた母でした。
自分のことは二の次にして、周りのことをまずは優先。
誰にでも分け隔てなく優しく尽くしていた姿が瞼を閉じると浮かんできます。
手先が器用で、料理上手。
趣味の編み物やくるみ絵作りでは、出来上がると周りの方にプレゼント。
みんなに喜んでもらうことが母の元気の源でした。
家族、孫、お友達にあふれるほどの愛情を注いでくれた母の温かな面影はいつまでも忘れられません。
そして今、感謝の気持ちでいっぱいです。
大好きなお母さん!
今日まで本当にありがとうございました。
そして僕から母へ
「お母さんの息子で、本当に良かったです。
また生まれ変わってもお母さんの元に生まれたい。
僕を産んでくれてありがとう。
これからはもっとお母さんみたいに思いやりのあふれた優しい人間になれるよう、そしてお母さんが生きた78歳をまずは目指して、ゆっくりだけど歩いて行くので、どうかずっと遠くから見守っていてね。
親父や家族のことは僕に任せて。
ありがとう!お母さん」
母が作った沢山のくるみ絵達🖼
母からもらった沢山の愛情は忘れず、今度は自分が沢山の方々に与えていける人間になりたいと思います。
最後に1つ、前回のブログのタイトル「たった1つ願いが叶うなら」、僕は「この世から癌という病気がなくなりますように」と願います!
かなりの長文失礼致しました。
でもこの気持ちが母へ届きますように🙏