「人」と言う字は元々種を撒く人間の姿をその起源にしていると言われているが、この字は途中で腰を折って両手を地面につけた状態、「刀」と殆ど同じ形を経て今日に至っている。

「屍」はこの逆の状態、尻もちを付いて、両手を後ろで地面に付けた形を起源にし、しかも当事者に息が有るか否かを問う事をしていない。
「屍」は「死」と同義ではなく状態、「形」を現しているだけだった。

そして「大」は人の正面を現しているのだが、この状態の人間と言うのは存在し得るのだろうか。
少なくとも古代の一般庶民にはこうした状態は無かっただろう。

それゆえ「大」は為政者や統治者、或いはそれらに拠って認められた者の姿を指していたように思われるが、その為政者にしても外に現す姿こそ「大」だったが、自身の内に在っては「召」の字が示すように、地獄の入り口となる台の上で蠢いているようなものだったに違いない。

人の正面の姿と言う事を思うとき、幾千本の矢の前に両手を広げ、目を見開いた者の姿を私は思わざるを得ない。
死を覚悟した人間の姿しか浮かんでこないのであり、そもそも人は夜が来て朝が来るように、唯存在するだけで光と闇がそこを通り過ぎ、善と悪が手を繫いで上を覆う。

そのような中に在って、一点の曇りも無く正面を見据える時が有るとすれば、私なら命を諦めた、「もはやこれまで」の状態以外に考えられず、それゆえ「義」の究極は「死」であると思わざるを得ないのだが、一方こうした考え方が一般化すると、例えば封建社会では「付随義」(ふずいぎ・造語)が蔓延する事になる。

犬より人間の命が軽い「生類憐れみ」、皿一枚で命を落として亡霊となった「皿屋敷」の話はその最たるものだが、現代社会はこれを笑えない。

子供の教育を第一義にしなければならないPTAでは、会長の顔を立てるためにイベントが企画され、総理大臣は国の為に命を賭けねばならないが、自己保身に政治生命を賭け、死して猶親を思う気持ちは金で買った絢爛豪華な仏壇に手を合わせさせ、デートの時間に遅れれば簡単に恋人関係は憎しみに変わり、犬や猫が死んでも盛大な葬式が行われ、人間の葬儀は家族葬へと向かっている。

思うに我々の周囲に存在する「義」で「付随義」以外の「義」などあるのだろうか・・・。
おそらく古代の人々も「義」と言うものに対してはその存在の危うさを肌で感じるものがあったに違いない。

それゆえ「義」には「ゆらぎ」が有り、「形としてはこちらを選ぶのが正しいが、どちらを選択してもお前が命を賭けるなら、それはどちらも間違いではないぞ」と言うような在り様になったのではないか・・・。

純粋な「義」は存在しないだろう。
古代の人々も現代の我々が見ている「義」も、もしかしたらそれが美しく見えるだけかも知れず、それでも人は「義」を求め続けるのは、この世に「義」が無いからであり、「義」は人の世の幻かも知れない。

「義」だけに留まらず「五常」の他の「仁」「礼」「智」「信」もきっと形でイメージするなら「台風」のようなものかも知れない。
中心は在るのだが、そこには何も無く周囲を激しい勢いで雷雲が渦巻く、そんな姿のような気がするが、でもこの何も無い中心が無ければ周囲の激しい雷雲も存在できない、そんなもののような気がする・・・。