今日はいい天気・・・・。

風も無く穏やかで、この季節にしては暖かく、外へ出るのも楽しくなるが、今から10年ほど前の一時期、私は晴れた日が悲しく、毎日朝が来ないことを祈った時期がある。

当時仕事で独立して10数年、次第にいろんなところから認められて、新聞取材やテレビ取材もぼつぼつ出始めていた頃、「いつかは世界を土俵に」と思っていた私は出会うべくして二人の男に出会う。
一人は最先端の技術者、そしてもう一人は営業のスペシャリストだった。

年齢は私よりもはるかに上だったが、この二人と出会ったその日から意気投合、伝統技術は私が、最先端は○○が、営業は○○と言う具合で、特に凄かったのはこの営業だった。
日本全国を走り回ってクライアントを見つけてきたのだった。
このままだと3人で全国シェアの80%を押さえることになるんじゃないか・・・などと話していた。

そしたらやっと世界に出て行ける、自分の敵はソニーだ松下だ、ディオール、シャネルだと思っていた私は胸が躍ったし、もしかしたらそれが夢ではないかも知れないと思っていた。
だが不幸はある日突然訪れる。
最先端部門の技術者から、営業の男の様子がおかしいと言う電話が入った。

3人とも住んでいる場所は同じ県ではなかったし、それを繋いでいたのが営業の役目だったことから、私は急いでもう一人のところへ車を飛ばし、二人で営業の男の家へ向った。
高速を走っても4時間近くはかかるのだが、営業の男は昼間から家のカーテンを引いて酒を飲んでいた。
「何をやってるんだ・・・」開口一番の言葉がこれだったが、男の目は死んだ魚のように生気がなく、反応も鈍かった。

彼は確かに営業のセンスは抜群で、どんなに取引を組むのが難しいクライアント企業でも必ず落としていたし、彼等からの信用も得ていた。
だが、問題は「女」だった。
遅く結婚した彼は妻を愛し過ぎていた。

自分が気に入った服を着せて、自分が望むような女であることを妻に求めたこの男は、次第に妻が浮気をしているのでは・・・と疑い始め、ついに軟禁状態にしてしまう。
これに耐えられなくなった妻は実家へ逃げて帰らなくなってしまった。

やがて言うこと聞かなければカッターを突きつけ、脅して夫婦生活を維持しようとしていた男は離婚訴訟でも当然だが、一方的に敗訴、妻の付近50メートル以内に近づけないことになってしまった。
それから男は何度も自殺未遂を繰り返すことになり、その度私ともう一人は駆けつけ、豪胆なもう一人の技術者は「女ぐらいなんだ、欲しければどれだけでも連れてきてやる」とまで言うのだが、男の耳には届かなかった。

雪の中で酒を飲んで寝る、睡眠薬を大量に飲む、交通事故に遭うなど男は何度も自殺しようとして、その度に私ともう一人の技術者に阻止されていた。
だが、ほんの僅かな隙だった、前日少し落ち着いているのかなと思った私達は仕事のこともあり、1度それぞれの家へ帰ったのだが、その明け方だった、路上で寝ていた男は車に轢かれ即死した。

葬儀で私ともう一人の技術者は、お香を投げつけようかと思うほど悔しかったが、その後男には保険金が出ることになり、今度はそれを巡って元妻と男の両親が裁判を始め泥沼になり、私達はため息しか出てこなくなった。
だが本当の問題はそれからあとに起こってきた。

男はクライアントの受注を管理していたのだが、300件以上の受注が放置され、そのすべてが他では調達不可能、つまり私ともう1人の技術者で製作しなければならなくなっていた。
年間50くらいの受注をこなすのが精一杯の私は完全にコントロールを失い、営業まで兼務しながら事に当たっていたが、未回収の代金を抱え、オープンが迫っている店舗などでは損害賠償の訴訟を起こされる寸前だった。

多分もう1人も同じだったと思うが、毎日朝から晩まで電話が鳴り、その全部が「まだ仕上がらないのかー、一体いつまでまたされるんだ」になっていた。
そんなある日、長い取引がある企業の重役が家へ訪れ、この人も仕事の催促だったのだが状況から私の事情を察し、帰り際にこんなことを言った。

「どんなに悩んでも苦しんでも、その日は必ずやってきて、必ず何とかしていくものだ、それができていようがそうでなかろうが同じだ、どんな悲惨な事になろうが必ずやって来て何とかはなる」
「どうにもならなかったとしても、自分が死んでる事になるだけの話だ」
この言葉は私にとても大きく響いた。

それまで朝がくる度、何で太陽が昇るんだ、しかも何でこうも天気が良いんだ、と朝がくることを恨み、青空を見ていると知らない間に目に涙がたまっていた。
それから私は、一つずつ整理をし、謝らなければならないところには土下座して謝っていった。

だがこの整理が終わるまでには4年の月日を要し、その最後が一番大変だったのだが、母親が直腸癌で入院、妻が心臓病で手術、共に田舎では治療できなかったため100キロも離れた大学病院での治療になり、おまけに地元マスコミ関係者と共同で、コミニュティー紙を創設するため編集委員もやっていて、子どもは小さく食事を作りながら、仕事もして農業も、と言う事態になっていた。

そのためせっかくこの仕事が好きで、遠く関東からわざわざ家へスタッフとしてきていた女の子にはろくな給料も払えず、その上にストーカーにまで遭っていたことを知らなかった。
既に生活に疲れたスタッフの女の子は実家の関東に帰ることになり、確か12月22日だったと思うが、彼女をバス停まで送った私はバスが発車しても、いつまでも冷たい雨に打たれていた。

そして家へ帰って仕事場へ上がると、そこには彼女がバスの時間ギリギリまで何かしようとしていたのだろう、油を拭いたりするときに使うウェス(布切れ)がたたんで綺麗に積まれていた。
私はそのウェスに顔をつけて大泣きした。
こんな辛い思いをしてまで、この仕事を続けなければならないのか・・・と思った。

今でも時々、この事を思い出す・・・。
でも、もうあんなドジは踏まない。
今はこの天気を素直に喜べるし、青い空も美しいと思える。

もう1つ、昨日から正月休みで実家に帰ったが、あの頃は女の子だった彼女も30を過ぎてしまったが、今私の後継者としてスタッフに復帰していて、私は手厳しく管理されながら仕事をさせて頂いている。


※ 本文は2008年12月29日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。