前回にもご紹介したように、新荘区の新荘路は約300年の歴史があります


↓その歴史については以前のブログを見てください↓


その時の交易に使われていた小道(巷子)が、今も残っています


これは、今の新荘路の観光地図です


(台湾新北市新荘区役所ホームページから)


拡大して〰︎



この赤丸の中にある、三本の小道が清の時代から存在します


あの有名な【老順香】の近くにあります


↓【老順香】についてはこのブログを↓


この三本の小道 とっても狭いんです    その狭さに歴史を感じますね


それでは、一つずつ見て行きましょう    


 戲館巷

どうですか この狭さ  言われないと分からない   通り過ぎてしまいそう




こんな案内板が‥‥


中国語説明文

清朝時,新莊是北台灣政經中心,商賣雲集,人文薈萃,加上當時各地節慶類繁,廟會活動旺盛,所以戲曲業成長快速,門筛甚多,如布袋戲的「小西園」、「錦上花樓」、「錦花樓」、「小世界」和「小花園」,以及北管的「俊賢堂」、「新樂圍」,南管的「聚賢堂」等均駐演於新莊路三五九巷,更曾住了很多教唱殿曲的師傳-曲仙,使得學啟曲的人們都聚集於此教、學,是故本巷即被推稱爲,「戲館巷」也算是古早的娛樂研習中心-先民台灣的好萊塢,目前尚在此巷僅存「小西園」兄弟團-新西園


日本語訳

清朝時、新莊は台湾北部の政治・経済の中心であり、商業が盛んで文化も豊かでした。さらに各地の祭りや神社の活動も盛んで、そのため戯曲業界も急速に成長しました。布袋戲(ぬいぐるみ劇)の「小西園」、「錦上花樓」、「錦花樓」、「小世界」、「小花園」、北管(ほっかん、伝統的な音楽劇)の「俊賢堂」、「新樂圍」、南管(なんかん、伝統的な音楽劇)の「聚賢堂」など、多くの劇団が新莊路359巷に拠点を置いていました。また、この巷には曲仙(戯曲の教師)、布袋戲の演者、歌仔戲(台湾の伝統的なオペラ)の俳優、後場の音楽家などが住んでおり、「戲館巷」と呼ばれていました。現在でも「小西園」兄弟団(新西園)がこの巷に残っています。


布袋戲(ぬいぐるみ劇)ってこんな感じ     指人形的なモノかな


ニュースソースはココから↓





娯楽文化の中心だったんですね


この巷には、こんなレトロな門構えのお宅もあり


しかし、昔の面影はあまり残していません


次の巷へ歩いていきましょう    すぐ近く徒歩1分です


②米市巷
ココもいい感じに狭いです


バイクがやっとすれ違える位の幅


ココにも案内板が‥‥

中国語

米市巷

早年新莊街是新莊平原米糧的批發中心,大陸的商船抵達新莊港口後,在慈祐宮前的碼頭卸貨,苦力(紅貨的工人)即穿梭在這條開了數家米糧批發商的巷子裡搬運貨物,由於米糧是當時主要的貸物,「米市巷」之名因而流傳下来。在「米市巷」的尾端,靠近大漢溪的方向,有座潮江寺,清朝時樓下原為苦力們的休息所在「草履间仔」,後來因漳,泉械門,新莊人於是將樓上改為瞭望台,以防止板橋漳州人再次的進攻。日治時期才又將之改為供奉觀音菩薩的潮江寺,樓下則改為奉祀土地公的福德祠。


日本語訳

昔、新莊街は新莊平原の米の卸売中心でした。大陸からの商船が新莊港に到着すると、慈祐宮前の埠頭で荷物を降ろし、苦力(荷物運びの労働者)がこの通りにある数軒の米卸売業者の店まで米を運びました。米が主要な商品だったため、「米市巷」という名前が広まりました。


「米市巷」の端、大漢渓の方向には潮江寺があります。清朝時代には、楼下は苦力たちの休憩所で「草履间仔」と呼ばれていました。その後、漳州や泉州の人々が新莊に住み、楼上を望楼として使用し、板橋の漳州人の再度の攻撃を防ぎました。日本統治時代には、観音菩薩を祀る潮江寺に改められ、楼下は土地公を祀る福徳祠に改められました。



今は案内板と壁画のイラスト以外に、この巷に当時の面影はありませんが、


地元民の生活の息吹を感じることができます。


  

当時の労働者の休み場だった場所はココです↓



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