今日は、釣りに行こうと思ったけど。
。。。雷注意報!!
止めだ止め!
カワハギでも描いてストレス発散だ!
ふと、思い立った。
そうだ、クッキーを作ろう!!
最近読んだ(Audibleで聞いた)本!
↓これね。
宇宙カレンダー♪
宇宙の誕生ビッグバンを01月01日00時00分00秒とする。
そして、今現在を12月31日23時59分59秒とする。
宇宙の誕生から現在までを365日で表すカレンダーね。
01月01日 ビッグバン(138億年前)
04月11日 天の川銀河の形成
09月01日 太陽と地球の誕生
09月02日 月の誕生
09月17日 海の誕生
09月22日 最初の生命の誕生
11月06日 細胞核をもつ生命誕生
12月18日 魚類の出現
12月21日 最初の森が誕生
12月26日 哺乳類の誕生
12月31日 19時30分 最初の猿人誕生
21時08分 日本列島の形成
23時52分 現世人類誕生
23時59分59秒 科学の時代
・・・人類の科学文明なんて、1秒!(笑)
高エネルギー加速器研究機構 素粒子原子核研究所編。
かなり難易度が高いけど、面白い。
周期表を再び思い起こすことになるのね。
高校の物理や大学の物理を再説明!(笑)
恒星内での元素合成の過程では、鉄より重い元素は恒星の通常の寿命中には作られない!
四つの力(基本相互作用)について。
重力・・・重力子(グラビトン)(仮説)
電磁力・・・光子(フォトン)
強い力(強い相互作用)・・・グルーオン
弱い力(弱い相互作用)・・・W⁺, W⁻, Z⁰ボソン
電磁力に対して、「強い力」と「弱い力」ね。
そして、素粒子17種。
フェルミ粒子(フェルミオン)は、スピン1/2?
物質を構成する粒子。
スピン1/2とは、なんと1回転では元に戻らない(量子力学的特性)性質のことで、360度ではなく、720度で元の状態なんだと。
例として、メビウスの輪で解説してくれた。
解りやすい!!
パウリの排他的原理に従い、同じ状態に2つ以上のフェルミ粒子は存在できないと。
そして、フェルミ粒子は、クォークとレプトンに分けられる。
クォークは、アップ、ダウン、チャーム、ストレンジ、トップ、ボトムという粒子が6種。
レプトンは、電子、ミュー、タウ、電子ニュートリノ、ミューニュートリノ、タウニュートリノという粒子が6種。
ボース粒子(ボソン)は、スピン整数。
力を伝える粒子で、パウリの排他的原理に従わないため、複数の粒子が同じ状態に「重なれる」性質がある。
例として、レーザーが紹介されてた。
光子、グルーオン、W⁺, W⁻, Z⁰ボソン、重力子の4種。
ヒッグス粒子は、スピン0のボソン。
2012年にCERNのLHCで発見された、神の粒子。
ヒッグス場により、他の粒子に「質量」を与える。
フェルミ粒子が宇宙の「モノ」を作り、ボース粒子がそれらの「関係」や「変化」を司るわけね。
ちなみに、CERNのLHCとは、欧州原子核研究機構(CERN)のLHC(大型ハドロン衝突型加速器)で、地下約100mにある全周約27kmの円形トンネル施設だよ。
光の速度に近い速さまで陽子を加速し、正面衝突させると、宇宙誕生直後のような高エネルギー状態が再現され、そこから現れる粒子(壊れる・現れる)を精密に観測することで、宇宙の起源や物質の構造を探ってる。
ヒッグス場により、他の粒子に「質量」を与える説明は難解!
また、最先端の素粒子物理学でも不明な点が多い。
素粒子の大きさや、内部構造も点のような存在としてモデル化されてるだけだし。何より、「観測されるまでは粒子の状態は確定していない」コペンハーゲン解釈があるからね。
宇宙は物質で満たされているが、対になる反物質はほとんどなく、なぜ物質が優勢になったのかはまだはっきりしない非対称性の問題。
観測できない質量の正体ダークマターや宇宙膨張の謎ダークエネルギー。
そして、統一理論の夢・・・電磁力と弱い力は実は同じ「電弱力」として統一できる(実験で確認済)。
現在、強い力と電弱力を合わせる「大統一理論(GUT)」が目指されている。
しかし、重力までは。。。
ん?ちょっと待て、光子は質量0??
それだと光子の時間は止まっているよね?
光子にとっては時間が止まっていて、外の観測者は時間が流れている。
つまり、光子は「時間がない存在」として、「時間がある世界」に存在すると。
う~ん、納得できん。
「観測されるまでは状態や事象が定義されず、観測者の時空で確定する」
ここにも、量子もつれとコペンハーゲン解釈か。。。
とにかく、ウォーキングしながら聴く内容ではないかな。(笑)
もっかい聴こう!!
「葦の音(あしのおと)」 作:海釣りジョニー 夕陽が川面を朱に染めはじめたころ、三人の息子と父は、三重県のとある一級河川の川辺にいた。そこは、地図には載っていても、土地の人々がその名を語りたがらない場所だった。 だが、父と三人の息子はそのことを知らなかった。ただ、車で釣り場を探し、偶然見つけた無人の川辺が「釣りに良さそうだ」と思い、立ち寄ったに過ぎない。河川敷に車を停め、ぶらりと降りてみた場所だった。 草むらの奥から、何かが、こちらをじっと見ている。 玄関に入ると、三人の子どもたちは誰も口を開かなかった。 釣りをしていたときに何枚か撮った、子どもたちの写真を開いた。 一枚、また一枚と指を滑らせ、最後の一枚で、父の指が止まった。 しかし、空間そのものが、どこか異質だった。 草の揺れ方が不自然で、奥行きがまるで歪んでいるように見える。 目を凝らすほどに、ぞわりとした寒気が背を走った。
それは、自分の職場の上司であり、また釣り仲間でもあった人物だった。 ふと目に留まった古い郷土誌には、あの川の名と流域にまつわる伝承が記されていた。 そこにはこうあった。 自然は人がその存在を忘れても、静かに在り続けるのだ。 あの日、私たちは知らずに聖域を踏み、見えざる境界を越えてしまったのかもしれない。 |