よーく考えれば当たり前のことですが、
ほんの最近気が付いたことがあります。
私の見ている世界は、他の人が見えている
世界と全く同じではない。
ある人の見ている「赤」が私の見えている
「赤」と同じ色ではない。
ということです。
私は視力だけは良くて、物がクリアリーに見えますし、
色の識別もものすごく細密に見られるようです。
一時期、タイルをグラデーションにきれいに
並べるゲームにハマっていたのですが、
一般的な手数よりも少ない手数で並べ替える
ことができました。



その代わり、私は片耳が聞こえません。
普通にしていれば普通に会話できますが、
左側から話しかけられると
「何か言っているけど、何を言ってるか分からんぞ。」
という状態になります。
音は認識できていても、内容は理解できないのです。
片耳難聴人あるあるで、内容が分からないと
何度も聞き返すのが申し訳なくて(実際
失礼だと怒られた経験もある)、曖昧に笑って
ごまかしたことも多々あります。
円卓のテーブルは苦手ですし、お誕生日席は
左の人がなおざりな対応になるのが申し訳なく
座れないなぁ、と思っています。
接客の仕事は楽しかったですが、片耳が聞こえないが
かなりのハンデになりあきらめました。
口元を見て何を話しているのか、話しかけているのかを
判断していた時期もありましたが、今は
みんなマスクをしているから全く分からず。
そして普通に表情の変化も分かりにくいので、
もともと他人と関わるのは得意ではないのですが、
ますます苦手意識を持つようになりました。
そして挨拶の口調で「ああ、この人今日は
体調悪いのかなー」とか余計なことを考えてしまいます。
目が悪い人はメガネで分かるし、「目が悪いんですよー」
って言っても、割と普通に接してもらえるから
不公平だな!と思うことも多いです。
そんな感じなので、私の見る世界、Aさんの見る世界、
Bさんの見る世界は全く一緒ではないのだな、と。
「あの素晴らしい愛をもう一度」の歌詞に
あの時同じ花を見て
美しいと言ったふたりの
心と心が今はもう通わない
というのがあるのですが、色が美しいのか
形が美しいのか、きっと全く一緒の
「美しい」ではなくて。
通っていたと思っていた心は、もともと
微妙にずれていたのかもしれないですね。
この年になって今さらながらそんなことを考えていました。
ちなみに片耳しか聞こえない人より、両耳の聞こえる
人の方が同じ音も大きく聞こえるらしくて、
「そりゃあ、私の聞こえない音がよりよく
聞こえるはずよねー」
と驚くのでした。
弟がお土産にバームクーヘンをくれました。
有名なバームクーヘン。
「食べたことないから、うれしいわあ、
楽しみやわあ!」
と言ったら、
「食べたことないんか!」
と驚かれました。
「誰もお土産でくれなかったし、
お取り寄せすることも考えたことも
なかったわ。」
と言ったら、
「そんなもんじゃないやろ。」
と言われました。
お金持ち?の言うことはちょっと良く
分かりません。
そして、ちょっといやらしい私はこの
バームクーヘンがいくらするのか
調べてしまいました。
驚きました。
こんな小さいのに、2000円近くするのね!
お菓子は原材料費も包装資材費も上がっているから
多少高いのは仕方ないとしても、これは
たいそう高級なバームクーヘンだな。
こんな高価なお菓子でも、需要があって
買う人がいるんだなぁ、と思いました。
買っているのはお菓子ではなく、ブランドか、
箱か、その先の物語か。
とにかく付加価値も大事なんだろうなぁ、と
思いました。
昔々、私がデザイナーだった時に先輩デザイナーに
言われたことは、
「自分だけにしかできない価値を身につけないと
いけないよ。僕はWebの構築ができるし、
K君は印刷会社にいたからフォントは見れば
だいたい分かる。久遠君は何ができるかな?」
ということでした。
誰でもできる仕事であれば、私である必要はない。
存在価値を感じてもらうには、他人ができないことを
できる必要があるということなのでしょう。
でも何となく「○○があるから価値がある」ではなく、
バームクーヘン好きだなぁ、だけで
価値を感じてもらえたらいいのになぁ、と
思うことがあります。(それには私がもっと
人間的魅力などを身につけないといけないということですな。)
そして、高価なものだから非常においしいと
いうわけではなく。
(普通においしかったですけど、期待値が高かった。)
「おいしい」というのは何なんだろうな、と
常々考える私なのでした。
迎えた当日。
午前中に組み替えた新しいプログラムでのリハーサル。
何とか本番を迎えました。
普段全然人とは話をしないのに、司会もがんばりました。
言いたかったことは3分の1でも伝わればいい。
演奏を聴いてなんらか感じてくれればいいと思いました。
第1部の「いのちの歌」で、楽譜の2ページ目が3ページ目の
下になったままになっており…私のパートは主旋律。
ただ、まだここはユニゾンパート。
楽譜の1枚目を演奏しながら、演奏をやめて楽譜を
めくるか、そのまま自分の可能性にかけるか。
悩んで、後者を選びました。
何度も演奏した曲。頭に楽譜はあるし、指も勝手に動く。
ヒヤヒヤしましたが、無事に完走しました。
最後の最後まで3人で合わせるのが難しかった曲でも
あるのですが、本番ではきっちり吹けたのも良かったです。
第2部の最初は、楽しそうな場の雰囲気が良かったのか
公民館長さんが音に関する科学実験をしてくださり。
和やかな雰囲気の中、Kさんの朗読、みんなで歌おう!
ということになりました。
ちょっとした歌声喫茶みたいな感じになりました。
いろんな人に笑顔で帰ってもらえたので、
不備なところはあったとしても、初単独コンサートとしては
大成功だったのではないかと思います。
平成26年から始めて9年目になったコカリナです。
ちょっと疲れたのでしばらくお休みしますが、
もっと上手になって自分のコンサートに
いつか知人を呼べるようになりたいです。
しかしなぁ、9年やっててもリズムが分からないのは
困ったものだなぁ、と思います。
昨日の土曜日はコカリナのコンサートでした。
今年の3月に私の仲間Mさんが、
「Kさんを元気づけるために、コンサートを開催したい!」
と言い出し、簡単に
「いいですよー、やりましょう!」
と言ってしまいました。
演奏し慣れた曲ばかりでしたし、主旋律が主だったので、
練習自体はそんなに大変ではありませんでした。
みんなで集まって練習するのは楽しかったですし、
私はひとりではなかなか練習しない人なので。
疲れが出てきたのが7月。
「自分の生活に余白がない気がする。
したいことに優先順位つけないと、全部ダメになる。」
と思った矢先にかかった新型コロナ。
コロナで辛い時にMさんからLINEがあり、
「一緒にコンサートで演奏しようとお願いしていた
Fさんが、急遽コンサートの日の辺りで手術
することになって。
コロナの感染者も増えて来ているし、
中止するか、延期するか、規模を小さくしてするか
どうしますか?」
と聞かれました。
…いや、今すぐ返事せなあかんの?
コンサートまでまだ1か月以上あるけど。
お盆の頃じゃあかんの?
そして、私が決めなあかんことなの?
と思いながら、
「中止も延期もしません。出来る範囲でしましょう。」
ということにしました。
最悪会場が使えない時は中止にすればいい、
中止はいつでもできるという判断です。
そしてお盆前。
再びMさんから連絡が入りました。
「規模を縮小することに決めたけど、お願いしていた
コカリナグループにお断りの連絡をして
くださいましたか。」
まだちょっと体しんどいんだけど。
てか、コロナかかって辛いの知ってるはずなのに、
代わりにお断りの連絡してくれないのかしら?
仕事ではないのだし、誰でもできることは
「私が代わりにやっておくから。」
ってやってほしいんだけど…。
(まぁ、これは、私も「体がしんどいから代わりに
してほしい」と言わなかったのが悪かったのか。)
泣きそうな気持ちになりながら、他のグループさんに
お断りの連絡を入れました。
8月の終わり。
月1回顔を合わせるギターの人がコンサートに
参加することになり、一緒に練習をすることになりました。
先週の月曜日に、そのうちのひとりがコロナ陽性に
なったと連絡が入りました。
「自分たちができることを。」
と昔、コカリナの先生にもらった伴奏CDを使うことに
なりました。
そして先週の金曜は、もうひとりギターの人と本番前の
練習をし、曲順を決め、プログラムを印刷してもらいました。
が、その夜、そのギターの人の身内の人が体調を崩し、
当日は来られないということになりました。
2度あることは3度あるのか⁉
今年の夏は、3年ぶりの行動制限のない夏
ということでしたが、コロナの第7波の勢いが
激しい夏でもありました。
私も例にもれず、流行りに乗ってしまいました。
乗るつもりは全くなかったですし、
それなりに気を付けて行動していたつもりです。
それでも、病気にかかるときはかかるのです。
先日、そんなことを書いていて自分が
嫌な気持ちになってしまったので記事を
1回消しました。
コロナの隔離期間の最中、ありがたいな、と
思うこともありましたし、自分が弱っている時に
しんどい接し方をする人とは、これから先の
付き合いを考えないといけないな、という
出来事もありました。
夏が始まってからずっと「生活に余白がないな」
と思っていました。
「今だけしかできないから…」と、
いろいろと予定を詰め込み過ぎたようです。
うつを患ってからは疲れやすい体になっている
のですし(元気の先払いをしてしまった)、
もう若くはないのですから、何でもかんでも
したいことをしようというのはやめないと
いけないな、と思いました。
どうやら無理がたたって、免疫が落ちたようです。
人生初のインフルエンザも年度初めの忙しさが
ひと段落着いた時にかかったのを思い出しました。
週に1日は誰にも会わない、どこにも行かない日を
絶対に作らないといけないな、と思いました。
(7月に入ってから、そんな日が全くなかったのです。
楽しいことでも1日に2か所も3か所も回れば
それはそれは疲れてしまいますよね。)
人に誘われても「せっかく誘ってくれたから」
と思わず、ちゃんと自分の体と相談しようと
思いました。
秋は秋で昇段試験とかいろいろ忙しいですし。
課題だって、しなくても死なないのですから、
できる範囲でがんばればいいじゃないですか。
「人の役に立ちたい」と思って行動しているのですが、
いつの間にか便利に使われているだけなのかしら?と
いう気持ちになることがあります。
自分の気持ちに余裕がなくなってくるから、
ついついマイナスな方向に気持ちが引っ張られるの
でしょう。
相手がそんなつもりではなくても、自分が消しゴムの
ようにすり減っていくような感じがしたら
相手との境界線が曖昧になっていないか
気をつけようと思います。
暑いせいでしょうか?
お腹が空いているのと、疲れているのと、
トイレに行きたいのと、体がどこか痛いのと、
不快な気温は情緒不安定になります。
なるべくフルコンボにならないようには
しているのですが、体が痛いのがどうにも
良くなりません。
今はイライラする感じが強いです。
普通なら流せることが、妙な感じで
ひっかかってきます。
先日は、朝起きて出かける用意をしようと
した時に、テレビを見ていた父親が
「洗濯物を干さなあかん!」
と言った時でした。
誰が干すか分からない洗濯物を、洗濯機を
かけて仕事に行った母親にもイラっと
来ましたが、
「それは私に干せということでしょうか?」
例えば水がほしい時に
「喉が渇いたんだけど。」
と言われると嫌なんです。
「この言葉から察して、何とかしてよ。」
という圧を感じるのです。
それなら
「悪いけど、お水持ってきてくれない?」
と言ってくれた方が気持ちがいい。
常々「察しが悪い」「気が利かない」と
言われているので、そういう婉曲表現は
やめてほしいのです。
あまりに腹立つなら、この洗濯物の場合。
「ああ、そう。干せばいいんじゃない?」
と返せばいいんだと思うのですが。
なんかね、普通に返して相手の機嫌を損ねて
自分にダメージが来るのも嫌なのです。
今年も何だかいろんなことが断れないままに
気持ちの余白がなくなりつつあります。
気が付けば土曜日が予定でいっぱいに
なっていたり。
楽しい予定のはずがなんだか憂鬱になってみたり。
(たぶん、人と一緒にいるのがあんまり
好きじゃないのでしょう…)
「今だけしかできない」
と思うと、どれも逃したくはないのですが
正直いろいろやりすぎだな、と思います。
コロナ禍で何もできなかった反動もあると
思いますが、疲れていると思ったら必ず
休むを心がけていきたいです。
片付けが苦手過ぎて、部屋の中がひどいです。
で、年に何度か「大片付け」をしているのですが、
そのたびにがっかりします。
同じものがたくさん出てくる。
ハサミとか、くしとか、ヘアピンとか。
定規とか、ボールペンとか、のりとか。
何やってるんだろう?と思ってしまいます。
どうやらポンコツの私は忘れん坊な上に、
「見えないもの=ないもの」という認識が
あるみたいで、よく探し物をしているのです。
前職でもそうでした。
相方の先生に
「いつも探し物をしている」
と言われたくらいです。
片付ける→忘れん坊だから、片付けた場所を
忘れる→見えないものは「ないもの」だから、
新しく買ってくる→掃除をすると片付けたものが
出てくる…という訳です。
あとは、ないと困るからと予備をたくさん
持ちすぎです。
ハサミは3本、くしは4本、カッターは3本、
ハンドクリームに至っては5個くらい出てきました。
一番ひどいのはヘアピン。しばらく買わなくて
いいです、ホントに。
片付ける場所を固定しておけば、問題ないはず。
と思いながら、いつの間にかどこかに
やってしまうのです。
読んでいない本も床に積みっぱなしだし、
楽譜も一度整頓したい。
部屋をきれいにしたら体調も整うらしいので、
がんばってやっつけたいところです。
