WHOももはや打つのを推奨しないと
言ってる中、まだワクチンを打たせようと
する日本。

父親曰く
「余ってるから打たせたいんやろうな。」
いやいや。こんなに人が死んでるワクチンを、
余ってるから打たせたいなんて、
正気の沙汰ではないですよ。

私(2回接種)もここまで来たら、何で死んでも
ワクチンのせいか、自分の寿命か分からない
ですが、ワクチンに殺されるのは絶対に
嫌なので、できる解毒はしていきたいと
思っています。

最近、友達に
「どうしよう、私ワクチン打っちゃったよ…」
と言ったら、
「大丈夫よ、人は死ぬまで生きるから!」
と励まされ、昔聞いた「死ぬまで生きる水」
の話を思い出しました。(いやそれ、普通の
水やん!)
まあ、遅かれ早かれ寿命が来れば人は
死にますし、決められた寿命まで生きるとか。
まあ、逆に言えば死なない方が怖いな。
死なないままで奴隷労働とか絶対に嫌だ。
死ぬなら、人間らしく死にたい。

昨年10月に「私の人生はこれで終わり
なのか?」と思うひどいめまいを経験し、
ワクチン接種関係なく、毎日を大切に
一期一会で生きていかないといけないなと
思うようになりました。
私の人生ではもっと早く死ぬ予定だったので、
今まで生きてこられたのは惰性もあるで
しょうが、まだお役目が残されているから
かしら?とも思うようになりました。
(生き死には自殺以外はやはり神様が
お決めになるものではないでしょうか。)

毎日納豆食べていたから、とりあえず大丈夫
だったのか?分かりませんが、まあ、
なんとか元気です。

今更ですが、世の中のいろいろを知ってしまい
2月の半ばくらいからうつになりかけ
久しぶりに苦しみましたが、どういう状況で
あれ生きている限り光はある。

私の場合は「情報を入れ過ぎだから、
テレビや新聞から離れて、自分の楽しいと
思うことに集中しなさい」と言われ、
少しずつメンタルは良くなってきた感じです。

本とかネットとかで情報を得ながら、
なるべく毒になるものは避けたいなあ、と
思いながら生きています。

親にはワクチンをこれ以上打たせないように
したし、弟はたぶん打ってないから
安心ですが、ワクチンで病気を止められる
(病気にかからない)と信じ切っている人に
対して、どうしたら打つのをやめてもらえるのか、
非常に悩ましいところです。

仕事上必要とか、学校に入学するのに必要とか、生活と人生がかかっているから打たざるを得なかった人が多いのもなんだかな、ですし。
(私は打ちたくなかったけど、そっちに負けた
パターン。「打たないといけないなら、仕事
辞めますわ!」とは言えませんでした。)
コロナに罹らないためのワクチンなのに、
ワクチンの接種者が増えるたびに罹患者が
増えたとかどう考えてもおかしいですし。
ワクチンを打つのは、周りの人のために
なるとか、嘘も大概にしてほしいです。
ロシアでは打たせたら罪になるんですよ。
打たないのはもう世界的な流れなんです。

いろんなことを真剣に話しているのに、
「なんかそんな映画、昔あったねー」
とかあまりちゃんと聞いてもらえないので、
最近はもうなんかあきらめモード入っています。

世の中が良いように早くひっくり返って
ほしいと、毎日真剣に願っています。

ここは政治アカウントではないのですが、

最近は本当に「政治は生活だ」と思っています。


皆さんに知ってほしいです。

華やかなイベントの裏で、大きなニュースの
裏で、本当に大事なことがしれっと
決められようとしている!

お金取られるのも嫌だけど、命まで取られたく
ないです。

昨年秋から、こっそりひとり「着物を着よう」

キャンペーンをやっています。


コロナも何となく落ち着いてきたのか

(いや、慣れただけかな?)お茶会とかも

開催されるようになったし、

「自分で着物を着れたらカッコいいよね!」と

いう単純な理由です。


あれは平成の終わるくらいの年でしたか。

お世話になったお茶の先生の初釜に呼ばれ、

一張羅の振袖を着て参加したのです。

それをきっかけとして、我が家にも何枚か

着物があることを知りました。

せっかくあるのに着ないのももったいないと

思い、祖母の着物と母の着物を自分の

サイズに直しました。

忙しさにかまけ、コロナが流行り…。

それから何年経ったのか。

せっかく直したのに着ないのはもったいないと

着る決心をしました。


その初釜の時に新しい帯も購入したので、

あれも2回しか締めてないぞ、と思いました。

(元を取らなくては!)


我が家のタンスには、祖母の着物、母親の着物

(2枚あって、1枚はまだしつけもついたままと

いうことは1回も着なかったのか!?)、名古屋帯

2本、雨ゴート、道行とそこそこちゃんと

揃っていたのですが、残念ながら全部私には

小さいのです。(帯以外は)

しかも帯も雨ゴートも道行もみんな赤色とか

朱色とかで「昭和か!」と思いました。

(いや、揃えてもらった時は母も昭和の

若者だったのですよ。そして私よりも

細かった!)


ひと揃いあるはずなのに、帯揚げと帯締めがないなー、と探して、あったのですが、

どちらも赤色で「昭和か!」とまたしても

思いましたよ。

袋に入ったままの新しい肌襦袢や伊達締めも

あり(しかし、パッケージは昭和!)、これは

絶対に私が着てやらないと!と思いました。


秋に祖母の着物を着て、母親に見せたら、

「きいちゃん(祖母のあだ名)の着物や!」

と大喜びし、スマホで撮って叔母に早速

送っていました。

なんかそういうのもちょっとうれしかったり。


最近はリサイクルの帯とか安く買えるし、帯揚げと帯締めのバリエーションをつけたら

何とか今でも着られるだろう、といろいろ

ネットとか眺めています。

素敵な帯や小物はやはりいいお値段ですな!


こないだは書道会の新年会に、自分で

着付けをして出席をしました。

もう少しカッコよく着られないかなー、と

2時間半格闘しました。

着物は1回着直しましたし、帯は2回やり直し

しました。


そこそこ上手に着ることができて、知らない

人にも「ステキなお着物ですね!」と

誉めてもらい、うれしくなりました。

ずっと日の目を見なかった母の着物も

華やかな場所に出ることができ、きっと

うれしかったことでしょう。



昨年の夏に、そういうきちんとした場所に

着ていくワンピースがほしいなーと

思ってはいたのですが、夏に罹患した

コロナで体重が5キロほど落ちまして、

「今買って元の体重に戻ったら、目も

 当てられんわー。」

と思ってやめていました。

洋服は流行りもありますし、なんかスカートが

似合わない体型なんですよ。(上半身が

ゴツくて、下半身が貧弱というか。そして

寸胴。)

ふわっとしたスカートは昔は憧れましたが、

本当に似合わなくてあきらめました。

スカートが似合う、華奢な人がうらやましい!


着物だったら、ある程度体型が立派でも

着られるし、見栄えもしていいなあ!と

個人的には思っています。


後は、体が固くて手が後ろになかなか

届かないところで帯結びが大変というところが

課題です。

「慣れですよ!」と着付けを教えてくださる

先生方には言われるので、もっと早く着られる

ようになりたいですし、いつか和洋折衷

スタイルとかもしてみたいです。


何ていうか、着物を着られることもそうですが、

表彰式とかパーティーとかそういう場所に

呼ばれるにふさわしい自分になりたいです。

がんばろう!

生きているときっといっぱいあるんだろうな、

と思います。

 

人はみんなそれぞれに考え方が違うので、

何でも正直に話すものではないのかな、と

最近は余計なことを話さないようにしています。

 

先日の講師と生徒の話だって、もしかしたら

講師の方には何の非もなくて、生徒の嫌いな

生徒のために練習の場所を作ったことが

「ひいき」と映ったのかもしれないですし。

(嫌いな相手だからなおさら、ね。)

そんな話を講師としたとして、ますます

生徒に対する気持ちがこじれてもいけないので

彼女が私に話してくれた気持ちは

だまっておくことにしました。

誤解があれば解いておきたいですが。

余計なことをして、大きなお世話と思われた

ことは、生きてて何度もありますし。

 

そして、私が心を痛める問題ではないのです。

まして、仲直りの仲介を頼まれているわけでは

ないのでね。

 

今はお互いに時間が必要なのでしょう。

いつか時が来れば、花が咲くように

お互いの心を開ける時が来るかもしれません。

ただ、もう命の時間は長く残されては

いないのですから、憎しみとか嫌悪とか

そういう感情はなるべく持たないでいられたら

いいのにな、とは思っています。

 

 

先日読んだ漫画に

「何事にも穏やかな人って、他人に

 興味がなくて、極めて冷静な人が多い気が

 するんだ」

「他人に苛立ったり文句が出るのは、

 その人に興味があって期待してる証でも

 あって…」

とありました。

私が毎日イラついてしまうのは、誰かに何かを

期待しているからなのでしょうか。

もっとフラットに生きていきたい。

 

あとは少し、「他人の期待に応えたい」と

思うのはやめたいと思います。

なんか便利な人と思われるのか、いろいろ

頼み事をされるのがしんどいこの頃です。

(そしてそれを断れない、断りベタ。)

役には立ちたいと思っても、便利に使われたい

わけではありません。

リーダーは、それをしたい人が、言い出しっぺが

すればいいと思うの。

「お願いします」と言えば、私が何でもする

と思ったら大間違いですよ。

近所のドラッグストアに買い物に行きました。
ガチャガチャがあったので、見ました。

なんかどれが当たってもかわいいから、やってみよう!
と思って、楽しみに回してみました。




どーん!!

なんやねん。
なんやねん。
こんなんのってなかったやないか。




ガチャガチャの機械をよーく見ると「シークレット」とある。


シークレットは
「はだかでばねずみ」‼

…見た目が微妙すぎる。
そして、実物の動物を見ると衝撃的なので、見たい人だけ
検索してもらえばいいのですが、
「なぜこれを彫った?」
「なぜこれをシークレットにした⁉」
ちょっとだけ頭が真っ白になりました。

知り合いに笑い話として話をしたら、「引きが強すぎる!」と
言われました。

今年もいい年になりそうです。

年々年末年始感が薄れています。

コロナ禍で世の中がそういう雰囲気なのか、

ただ単に私が年を取って感動が

薄れているだけなのか。


今年は久しぶりに年賀状を作成しました。

(ここ何年かは作る元気がなく、

売っている年賀状を使いました。)

相変わらずハガキに書く字の下手くそさに

嫌になりました。

児童館時代みたいに字を書かなくなったから、

書けなくなったのも分かります。

特にハガキは小さい字だから書きにくい。

しかも目が疲れているのか、見えない!

たぶん部屋が暗いのと、スマホの使いすぎです。

絵も、下書きは何とか描けたものの、

清書のペン書きがうまくできず泣きたく

なりました。

芸事は毎日やらんといかんと思いました。



昼間に弟がひとりで我が家にやってきました。

家にいると息が詰まるという話です。

上の娘が今年高校受験なのだけど、

したいことが分からないから私立の特進に

行くとかいう話をしていました。

私は彼女に随分長い間会ってないから

分からないけど、もっと近しい関係だったら

もう少し親でもない祖父母でもない立場で

寄り添えたのかなぁなんて思いました。

弟は「看護師の資格を持っていれば

稼げるから」と言ってましたが、資格だけ

あってもどうにもならないし、合うかどうかも

分からないからどうなのかな…と思いました。


しかし、未だに何をしたいのか分からない

自分が、

「高校だけは出ておいた方がいい」

「大学行っておけば、卒業の頃には景気が

良くなっているだろうから」

と浮草のように生きてきたので、とりあえず

目標を持って生きていくのは悪いことでは

ないのかもしれません。


まあ、1番良かった道としては、グラフィック

デザイナーとして大成することでしたが、

人生はいろいろなことがあります。

いろいろな経験の中で、好きなこと、

得意なことを見つけられたのは良かったかな。

全く違う仕事をしている今でも、その時の

ことで役に立っている部分もありますから。



2023年になり、1日めにしてあまり希望が

持てない暗い気持ちになっています。

私はとにかく自分のことより他人のことで

「どうにかできないか?」と思いがちなので、

他人の課題は他人のものと思わないと

いけないなと思います。

そういうところで、なんだか訳わからん

頼みを引き受けちゃったりするんだよ。


とりあえず両親はピンピンしてるし、

寝られるし、ご飯をおいしく食べられるのだから、

今は余計なことは考えないようにします。

趣味の仲間が、自分で作ったサークルを「卒業」した
という話を聞きました。

理由はいろいろあるのですが、自分がどんなに
一生懸命にメンバーに尽くしても「当たり前」と

思われたから。
そして、講師に対して不信感を抱いてしまい

顔も見たくないという状況になってしまったから
ということでした。

詳しい経緯は知りませんが、小さな不満や我慢が
澱のように溜まっていったのだろうということは
想像できます。

都合のいい時だけ「Kさんがいないと!」というくせに、

ちょっとしたランチ会とかは全く誘われなければ

バカバカしい気持ちになるのもよく分かります。

また最初の頃は、Kさんが「先生、先生」と講師のことを

慕っていろいろ質問などをしていたのを知っているので、

「大嫌いになりました」というのはよっぽどのことが
あったのだろうな、と。

 

講師からは
「Kさんの最後の言葉は、自分の品位を落としたから、
 ああいうことは言うべきではなかった。」

という言葉を聞きましたが(私はKさんの言葉が
どんな内容だったかは知りません)、Kさんがどういう
思いでその言葉を言ったのか講師が考えられなかった
ことを、とても残念に思いました。
講師もKさんの厚意に甘えすぎてしまっていたのでは
ないのかなぁ。

ものすごく熱心で、人のために動ける人を失ったことは
講師にとって大損失だったのではないかと思いますよ。

ー◆ー

自分にも言えることですが、「人のため」と動いていた
ことが、いつのまにか「当たり前」になってしまい、

なんだかないがしろにされているかも?と思うことが
多々あります。
この現象って何なんでしょう?

「自分がしたいと思ってしていることだから、
 人からどう思われても関係ないよね。」
と平気なふりしていても、じわじわと心が削られていきます。

不良がちょっといいことをしただけで大絶賛されるのであれば、

私もワルになろうかしら?と何度思ったことでしょうか。

本音では「したいからしている」わけではなくて、やはり
「認められたいから」「誉められたいから」という
気持ちが強いからいけないのだろうなぁ。
そういうことを他人に期待している部分が少しでも

あるから、心が削られていくんだろうなぁ、と思いますよ。



弟がまだ結婚したての頃、弟の奥さんと仲良くなりたくて

毎年彼女の誕生日には花を持っていっていたのですが、

ある年

「花はもう、いりません。」
と言われました。彼女なりに私に負担をかけないように
気を遣って言ってくれたのでしょうが、ものすごく
ショックを受けたし、それ以来彼女との付き合いは

非常に気を遣います。

 

もともと花が嫌いな人なのかもしれないですし、
枯れた花をゴミ箱に捨てるのが嫌だという人も
世の中にはいるので、そっち側の人だったのかもしれません。
ちなみに、私の母親は花は嫌いではないですが、世話を
するのが嫌なので、花はもらいたくないという人です。


ちょっとしたことで誤解も生むし、好意が悪意に
捉えられたりするので、人付き合いって本当に
難しいですね。

いい意味でも悪い意味でも、人の気持ちは変わるものと
思って、淡々と生きていきたいです。