たまに、自分の事をよく知らない方と話をしてて、

『それはスピリチュアルですか?』

と言われると困ってしまうんだけど、

スピリチュアルってなに!って話で、

 

起きてても寝ててもスピリチュアリティだし。

自然食を食べててもカップ麺を食べててもスピリチュアリティだし。

山奥で自然に触れた生活をしてても都会でお金回しに悪戦する生活をしててもスピリチュアリティだし。

 

スピリチュアルは特別な事ではなく、

自分自体がスピリチュアリティな存在なので、

「特別扱い」や「妙な思想」を持って言われると困ってしまう。

 

スピリチュアルとはこうゆうものであって、

スピリチュアルとはこうしなければいけない

との考えの方は居るだろうけど、

それはそれでいい。論争とかする気はない。

 

前に誤解を恐れずに、

『精神的自分と社会的自分』を書いたけど、

誤解されても仕方なしって感じで、

「誤解を解こう」「理解してもらおう」って

気はないんだけど。

言葉を混ぜてしまったので、

もう一度書こうと思って。

 

 

 

「社会」は個人(自分)をやらせない

「社会」は個人(自分)を見せない

 

「社会的自分」は「精神的自分」をやらせない

「社会的自分」は「精神的自分」を見せない

 

 

 

『精神的自分が目的があるので社会的自分で産まれてきた』

 

自分の事を社会でやりに産まれてきたのに、

自分を置き去りにしている人が

多いのは残念に思う。

 

個(自分)は個(自分)を表現する

人は誰もが表現者

 

表現者と言っても、

歌や絵を書くのが苦手

芸術・文学に興味がない、

とかの話ではなくて。

 

精神的自分から見たら社会的自分は表現者

 

自分がどこかへいって自分が出来ないのは、

社会がそれをやらせない、

洗脳やマインドコントロールがあるけど、

社会的自分もやらない(自傷行為)。

 

個(自分)を表現したい!と、

個(自分)の表現をする!と、

個(自分)に没頭をしていれば、

 

世の中や社会が良かろうが悪かろうが、

洗脳やマインドコントロールをしてこようが、

関係なく他者に影響は受けない。

 

『コロナはどう解決するのか』とかも、、

みんなが個(自分)に没頭をしていれば

解決する話だけど、

そもそも、みんなが個(自分)に没頭をしていれば

闇社会にならないんだけど、

世の中や社会が良くなる解決方法はあるのに、

大昔から絶対に人はやらないからね。

 

 

難しい話は抜いて、

 

我を忘れてしまうような、

無我夢中になれることをする。

 

子供の頃は無我夢中になって遊んだのに、

大人になると無我夢中を忘れるのは、

どうしてなのか・・残念だね。

 

無我夢中からいろんな事に気付いて、

いろんな事が起きてくるんだけど。

 

自分を忘れた自虐的なことばかりで、

自分を忘れる自愛的なことをしない、

そんな人ばかりで、

自分に向きあわないが、

自虐的行為だと気付いていないようだ。

 

前に「精神的自分と社会的自分は相反関係」

と書いたけれど、

社会的自分が無我夢中になることで、

精神的自分に近づいてシンクロをする。

 

言い換えると、

自分の外側と自分の内側が

瞬間的に一致する。

これが、想像を超えたことを

自分に起こすんだけどね。

 

自分に夢中にならなきゃ。

もっと自分を表現した方がいい。

 

社会やコロナの為に産まれてきたわけじゃないし。