今を生きる、なんて昔の映画のタイトルみたいだけど。

本を読んでいて、念じるという言葉は、「今の心」と書く、というフレーズに出会った。確かにそうで。

今を大切にする、今持っているもの、今の関係、そういったものに感謝して育むべきなのかもしれないけれど。

過去の記憶を想ったり、未来に思いを馳せたり。手に入っている「今」に、どうして興味がわかないんだろう。

ないものねだり。絶対に手に入らないものを望むのは、至上の贅沢だ。だから麻薬みたいにやめられない。

そうして、私は「今ここ」にいなくなる。

今の、ここ、に集中する必要性。

尊敬する友人と会う。
良い人間であるということ。嘘をつかないこと。忍耐強いこと、人を愛する、幸せにする能力があるということ。それは何に支えられていて、私はなぜそれができないのだろう。
ものごとの内側を見る事が恐いのかも知れない。手に入れたものの内側を見ると、それが逃げていってしまうとどこかで感じていて。それを見ないために、手に入れたものの内側を見ず、また次に走りはじめる。恐怖心に駆り立てられてるとも言えるかもしれない。
「すごく幸せってわけでもないけど、こんなに何も不幸な思いがなくていいのかなぁ」と思った瞬間、嫌なことが起きるという経験があって。ただ内側を見て、帰っていけるというのは、すごい強さと、引き受ける自信と、、どんな不幸があっても、それに立ち向かう、立ち向かえるという「信」の強さが必要なんだと思う。
気持ちのなかに誰もいない、をやってみようと思った。心の底から共感したり、気持ちを必死で理解しようとしたり、じゃなく、強い感情のない、居心地が悪くないゆるやかな関係性に支えてもらう、というのをやってみようと思った。
好きになった人の色に染まった世界が流れ込んでくる。私はずっとそんなふうに世界を見てて、自分ってものはからっぽの箱だなぁと思ってきた。その人の気持ちに寄り添い、時には振り回される。
そんなふうにバランスを失うこと自体が楽しかったりするのだけれど。
強く激しい感情は麻薬みたいな力があるけど、最高の気分と同量の最悪の気分も持ってくる。だから私はこういう中毒の連鎖から抜け出そうと思った。
コーヒーはあまり飲むと具合が悪くなる質なのでひかえていたのだけど、元来コーヒーの香り自体は好きなので、ミルクたっぷりのラテが出た時は嬉しかった。なぜかタリーズじゃダメで、スタバのラテが好きなのだけど、今日ディーン&デルーカのラテを買ってみたら、これが私好み。
試してみたら、ずっと好きだったものよりはるかに好きだった、というのは新しい驚きでうれしいものだ。
ずっと好きなものについてこだわりすぎて、さらに一段上のものを見失っている可能性について。
ひとを待っている間って、そのひとのことを考えている時間。
そう考えると幸せな時間だなぁ。待たされた分だけ、ひとを好きになる、ってことはあるのかなぁ。
PTSDってことばは、犯罪被害者とか天災にあった人のためにあったりするみたいだけど
大丈夫だと思ってたのにふいに思い出したりしてとめどなく悲しくなったり
雑踏の中にその人を探したりしてしまうのは 小さなPTSDみたいだ
ひとの心は、そういうふうに動くもんだ、っていうただそれだけの事だろうけど。
客観的に見てそんなに大した人じゃないだろう事はわかってて、人間的にはもっと大したことない、というか悪い人間の部類に入る事はわかってて。
だけど何かに縛られたがる私の心の性向がそうさせるんだろうなぁ。
からっぽだとかゆるやかだとか。そういうものに魅かれないのはなぜだろう。
次の何かに絡めとられ、縛られるまで、このプチPTSDは続くんだろうなぁ。
私は何もしないリゾート旅行は嫌いだ。
書くことの意味が見つからなくて、なんでブログなんてみんな書いてるのかな、と思ったけど。
届けたい誰かがいて書いてるんだな。それは物理的に存在する「誰か」かも知れないし、どこかにいて欲しい、希望的観測、概念としての、誰かかも知れない。
そう考えると、このブログという、ネットの海に漂うことばは、手紙を書いたボトルを海に投げ込むみたいな面白さがあると思った。
意味なんて求めるから苦しくなるんで、咲くときが来たら咲き散るときがくれば散ればいい。そうしたらまた芽吹きの時がやってくる
ただ淡々と、粛粛と。ただ生きればいいんだなぁ。
友人と話していて。「上品」は、体現するものではなく鑑賞するものだ、という事に思い至った。
体現しようとすると、速く走れないんだ。それだけをして過ごすには、人生は短く、見たいものや感じたいものが多すぎる。
人様が体現する上品を、並べて、眺めている方が密度が濃くて楽しい。
いつまでも傍観者なのかもしれない。主体的に何かをすることを避ける事で、逃げをうっているのかもしれない。
だけど、身軽じゃないと速く走れないんだ。主体的であることは、責任という重さをともない、時間のロスが大きい。
主体的でないということは、何も作り出さない。消費してゆくだけ。そんな側面を感じつつ、より多く、より広く、より深く見たいという欲求は私を動かす。
だから私は一人旅が好きだ。限りない軽さ。旅の醍醐味はそこにあると思う。
だけど、私は高いヒールの靴が好きだ。高いヒールをはいて走るのは大変だけど、それ以外の靴をはこうと思った事がない。

この間、台北の故宮博物館に行ってきた。もともと美術展を見たりするのは好きだったけど、何だか、感じ取ろうという思いばかりが先走って、ゆっくり眺めたとしてもどこか気ぜわしい気がしていた。でも、今回行ってみて、違う感覚にとらわれた。

何だか、全部「言葉化」しなくていいんだなと思った。言葉でとらえて、そこでそのアートと自分の関係性を作るんじゃなくて、心で見る、どこか「観」という感覚を持って、ただ向かい合えばいいんだと思った。美術館には中学のころから通いつめてたけど、何だかすべて言葉で理解しようとしていたんだと思う。

そうじゃないんだな。アートは基本的に、言葉化できない何かで、そこにある作品と自分がただ存在として向かい合う、対峙するということに意味があるんだな。

言葉という回路を通じずに、ただ感じるという感覚を大切にしなくてはいけないかもしれない、と思った。