11月18日生まれ | いずみ先生のひとりごと

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相模原市中央区東淵野辺(最寄駅;古淵)でピアノと音楽の個人レッスンをしている辻田いずみのピアノや音楽についてのブログです。

≪11月18日生まれの音楽家たち≫

 だいぶこの辺りも紅葉が
美しくなってきました。
いい季節ですドキドキ
(写真はさがみはらグリーンプール)
いろいろな秋の歌を
思わず口ずさんでしまいます。

では本日分をどうぞラブラブ
 
 音譜ウェーバー(カール・マリア・フォン・ウェーバー;Carl Maria von Weber)
  1786年11月18日~1826年6月5日(享年40歳)
  ドイツ;オイティン
  作曲家&指揮者&ピアニスト。
  オペラ「魔弾の射手」「オベロン」など
 
  彼の最大の功績はやはり
  指揮棒を使い始めたということでしょうか。
  それまでは錫杖のような指揮棒を
  地面に打ち付けて指揮を執っていました。
 
  が、重さも結構あったらしく
  足の上に落としてその怪我が元で
  亡くなる指揮者もいました。
  現在では先の尖った指揮棒が一般的で、
  怪我もなくやれやれ…というわけにはいかないようです。
 
  2004年10月23日、NHK交響楽団を指揮していた
  アシュケナージが演奏中に指揮棒を
  左手に突き刺して取れなくなり、
  後半を指揮できなくなるというアクシデントが起こりました。
  またショルティなども額に指揮棒を
  突き刺して流血騒ぎを起こしています。
 
  話が逸れましたが、ウェーバーといえば
  彼の姪がモーツアルトの奥さんのコンスタンツェと
  いうことはご存知でしょうか?
  兄の娘ということでしたが、
  最初モーツアルトは姉の方と恋愛関係にあり、
  数年後に妹の方と父親の反対を押し切る形で結婚しました。
 
  そんな繋がりがあったせいか
  優れた指揮者でもあったウェーバーは
  モーツアルトの曲も多く指揮して
  世間に彼の名を知らせる役目も果たしています。
 
  またドイツオペラの普及にも尽力を惜しまず、
  自らも「魔弾の射手」などを作曲し、
  当時はイタリア語で書くのが常識であったオペラを
  ドイツ語で書くことを不動のものとさせました。
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音譜近衛秀麿(このえひでまろ)
  1898年11月18日~1973年6月2日(享年74歳)
  日本;東京
  作曲家&指揮者。
 
  元子爵であり、貴族議員でもあった
  彼の兄に内閣総理大臣にもなった近衛文麿がいます。
  また弟に雅楽研究者の近衛直麿がいます。
 
  そんな特殊な環境に育った彼が
  正式に音楽を始めたのは1915年ごろのようで、
  その頃にドイツへ留学し帰国していた
  山田耕筰に作曲を習ったようです。
 
  1920年にはヨーロッパへ渡り、
  ベルリンやパリなどで指揮と作曲を学んでいます。
  帰国をすると1925年に山田耕筰と
  日本交響楽協会を設立しますが、
  そのうちに彼と対立、袂を分かつこととなります。
 
  そうして出来たのが現在のNHK交響楽団の前身と
  いうわれる「新交響楽団」でした。
  日本の交響楽普及は彼のおかげといっても
  過言ではないかと思われます。
 
  正当評価をあまりされてこなかった彼ですが、
  近年では注目されています。
  確かうんと古い映像ですが、NHKの映像資料で
  彼の指揮が残っているはずです。
  (見たような記憶があります)
 
  録音も少ないですがあるかと思いますので、
  どこかで見かけたら是非お聞き下さい。
  演奏法などが現在と違って面白いです。
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音譜古賀政男(こがまさお)
  1904年11月18日~1978年7月25日(享年73歳)
  日本;福岡
  作曲家。本名;古賀正夫
 
  今でもTV番組などで「古賀メロディー」の特集を
  よく見かけますので
  彼の曲をご存知の方は多いかと思います。
 
  幼い頃に父親を亡くし、朝鮮へ。
  そこでのぽっかりと穴が開いたような
  少年時代は後の彼のメロディーに
  大きく影響をしたとも言われています。
 
  初めて手にした楽器は
  従兄弟から貰った大正琴。
  中学三年生でマンドリンを手にし、
  兄にマンドリンを贈られると
  音楽への情熱が花開きます。
 
  そして高校を出た後は一時働き、
  苦学の末に明治大学へ。
  そこで今でも古賀政男とイコールで
  示されるくらいのマンドリン倶楽部を創設します。
 
  1931年、大学を卒業するとそこでの活躍から
  日本コロンビア専属となります。
  藤山一郎をパートナーとしてからは
  彼のクルーン唱法を理解していた古賀との
  絶妙なコンビネーションが
  更なるヒットを生み出します。
 
  1960年代になると美空ひばりとの
  コンビも見られるようになります。
 
  1958年に日本作曲家協会を創設、初代会長となり、
  死後の1978年には国民栄誉賞を贈られています。
 
  彼のメロディ=昭和のメロディとすることも多く、
  懐かしのとつく音楽番組に
  彼の名は欠かせないでしょう。