5月29日生まれ | いずみ先生のひとりごと

いずみ先生のひとりごと

相模原市中央区東淵野辺(最寄駅;古淵)でピアノと音楽の個人レッスンをしている辻田いずみのピアノや音楽についてのブログです。

<5月29日生まれの音楽家たち>
たまに出掛けると
容姿や服装は綺麗な人なのに
残念な人(女性)に出会いますえー?

スカートなのに
足を揃えていない人、
体臭が酷い人、
そして昨日はトイレに
順番待ちで入ったら
流れる前に出てきた人がいて、
ドン引きしました。
…自動でも流れてから
出ようよ…

そういえば以前も
トイレでドン引きした件。
居酒屋での出来事。
ワタクシで紙が無くなったので
次の方に「お店の方に
貰ってきましょうか」と
申し出なのに
「いいです」との返事。
急いでいるのかと
扉の上部から差し入れることを
申し出ても拒否し、
その理由が「どうせ汚いから」びっくり

モテそうな若い方なのに…
ああいう人が
母親になるかと思うと…

ワタクシはしませんが、
でも人の振り見て我が振り直せで
いろいろ公共の場では
気を付けないとと
思いました。

では本日分をどうぞラブラブ

音譜アルベニス(イサーク・マヌエル・フランシスコ・アルベニス;Isaac Manuel Francisco Albeniz)
  1860年5月29日~1909年5月19日(享年48歳)
  スペイン;かんぷろどん
  作曲家。組曲「スペイン」「イベリア」など

  今月はワタクシのピアノ教室に併設している
  アロマルーム「YURAGI」にて
  彼をテーマにした香りと音楽を楽しみながらの
  トリートメントが楽しめます。
  施術申し込みは
  アロマルーム「YURAGI」のHPから。


  さて彼のことについてです。
  ピアニストでもあった彼でしたが、
  手が小さかったといいます。
  しかしカザルス(同じくスペイン生まれのチェリスト。
  カザルスホールというのは彼の名前から)曰く、
  「驚くほど力強く、かつしなやかだった」と
  言っています。

  そのためでしょうか、
  組曲「イベリア」はリズム、
  和音構成などもとても独特で
  難しいものとなっています。

  自分もかなり時間がないと弾けません(T△T)
  もちろんスペイン独特のリズムのせいでもありますので、
  フラメンコを長く習っていた自分としましては
  大変悔しいので再チャレンジをしようかと思っています。
  (ちなみにもとはピアノ曲です。
  ギター編曲は後からされました)

  また若い頃にリストに師事すべく、
  ブダペストへ向かいましたが
  当時目指す彼はワイマールに居たため
  望みは叶いませんでした。

  しかし面白いのは、
  そこはスペイン人の彼のこと。
  そのまま観光して、
  行く先々で美しい女性に鼻の下を伸ばしていたとか。
  (彼の日記にはリストに会ったと大嘘が書いてあるそうです)

  そしてその後も放浪の旅は続きますが、
  23歳の結婚を機にマドリッドを拠点として活動を始めます。

  しかし旅の終わりが告げられるのは1909年のこと。
  飛行機事故に遭い、
  フランス・ピレネーの山中が終焉の地となりました。
音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字
音譜佐藤勝(さとうまさる)
  1928年5月29日~1999年12月5日(享年71歳)
  日本;北海道
  作曲家。
  「ゴジラ対メカゴジラ」「赤ひげ」
  「日本の1番長い日」「ああ、野麦峠」
  「日本沈没」、アニメ「地球へ…」など

  上記のほかにも「キタキツネ物語」
  「幸せの黄色いハンカチ」「敦煌」
  「雨あがる」など古いものから
  亡くなる間際の作品まで沢山あります。

  特に「雨あがる」は
  2000年公開だったはずですので、
  それを目にしないまま
  お亡くなりになったのだと思います。

  国立音楽大学卒業後、
  「七人の侍」で知られる早坂文雄に師事、
  そこから映画の世界へ足を踏み入れます。

  そして映画音楽だけでなく、
  美空ひばりのために書いたものや
  オリジナル曲も残しました
音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字
音譜クセナキス(ヤニス・クセナキス)
  1922年5月29日~2001年2月4日(享年78歳)
  ルーマニア;ブライラ
  作曲家及び建築家。

  ルーマニアで生まれましたが、
  ギリシャで数学と建築を学んでいます。

  第2次世界大戦中、
  反ナチスのレジスタンスに加わった際に
  左顔面と耳を痛めています。

  その後、生命の危機を感じて
  アメリカへ亡命する前に立ち寄った
  フランスで生涯の大半をすごすことになります。

  フランスでは日本の国立西洋美術館を
  設計したことで知られる
  ル・コルビジエの弟子になり、
  その一方でパリ音楽院で音楽をも学びます。

  晩年に来日しましたが、
  その頃にはアルツハイマー認知症を発症。

  1997年に書き終えた「オメガ」を最後に
  作曲活動に終止符を打ちました。
  (オメガはギリシャ語で最後の文字)