別れさせ屋 アクアの ガリガリ君 です。
今回は三国志の「黄巾の乱」についてです。
中国後漢末期の184年に【太平道】の教祖【張角】が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。【黄巾の乱】は後漢が滅亡し三国時代に移る一つの契機となった。
順帝(在位126~144)のとき千吉が神仙術を説いて【太平清領書】を伝えたが、霊帝(在位168~188)のとき(河北省平郷)の人【張角】がその教えを受け継ぎ民間の信仰などをあわせて【太平道】という宗教を唱えた。張角は自ら【大賢良師】と称し、黄老の道を奉じて弟子を養成し、病人の治療に従事した。その療法は、病気は自己の罪によるとして罪を反省し懺悔させた上でお礼と霊水を飲ませ呪文を唱えて治すというものであった。
治療という方法で、たちまち貧窮にあえぐ農民らの心をとらえ10余年間で河北・河南・山東から長江流域にかけて数十万の信者を得るにいたり、これを36の【方】に組織しそれぞれに指導者をおいた。
【大方】は1万余、【小方】は6000~7000人で軍事的組織でもあった。この勢力拡大に対し政府は弾圧を加え解散を命じたが、かえって信者の団結は固くなり農民らの不満を反映し革命運動に転じた。
やがて張角は自ら【天公将軍】と称し、弟の張宝を【地公将軍】 張梁を【人公将軍】とし、【蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし。歳は甲子に在り、天下大吉ならん】のスローガンを掲げ蜂起の準備をした。
184年3月5日に決起を予定していたが、事前に密告する者があって企てがもれ洛陽に潜入していた大方の【馬元義】が捕らえられ弾圧が始まると2月に各地で一斉に蜂起し、たちまち大反乱となった。事の重大さに驚いた政府は【可進】を大将軍として洛陽諸軍を統轄させ洛陽周辺に八関都尉を置き洛陽の守備を固め、党人の呼応を恐れ【皇甫嵩・朱しゅん】らを将として鎮圧に当たらせた。各地の黄巾軍は次第に撃破されていき、たまたま病に犯されていた張角は病死する。張宝と張梁は戦死し、11月にはほぼ鎮圧された。
しかし、この乱に呼応して各地で反乱がまき起こり黄巾の余衆の反乱も相継いだ・・・・・